66井伊谷攻めの檄(戦国、カケルのターン)
――あくる日。
山県昌景隊と馬場信春隊はそれぞれ天竜川と二俣川へ分かれて渡航し、すでに、二俣城を睨んで陣を張る総大将、武田信玄の陣へ入った。
カケルが、ちょび髭をしきりにつまんでは伸ばし、つまんでは伸ばしし、いつになく落ち着かない山県昌景と、娘、虎と並んで武田信玄の陣中に馬首を並べる。
「左近よ、ワシお腹痛いのじゃが、少し厠へ行ってくるぞ」
すると、娘の虎がいさめるように、
「父上、わずか四半時のあいだに厠へ立つのは何度目でございますか、少し、お控え下さいませ」
「虎よそういうな。出物腫物ところ選ばずというではないか、ワシは信玄公に会うとなったらいつもこうなのじゃ……うっ、腹の呻きが、襲ってきた。先に行くぞ、セイヤッ!」
と、山県昌景は、林の木陰に疾風の如く駆け出して、隠れてしまった。
残された、カケルは虎に尋ねた。
「ねえ、虎さん。武田信玄公って、いつでも飄々(ひょうひょう)としている山県のおじさんが、お腹痛い病になっちゃうくらい怖い人なの?」
「う~む、そうだな信玄公の人物か、一言で言うなれば化け物」
「えっ? 化け物って、不死身のゾンビとかそんなの?」
虎は、チャランポランな発言をしたカケルへ、その美しい顔の眉間へシワをよせ冷たく冷めた目で睨みつけた。
「よく聞け、左近よ、信玄公の化け物たるは、一目で相手の心を見透かす読心術と観察眼にある。父上も昔はああではなかったようだ。かって、父上は、信玄公の御側近くに使える側近として手足の如く仕えていたが、飯富の伯父御の謀反によって、飯富の姓を捨て、名門山県の家を継いでからああなったという話じゃ」
「ふ~ん、武田信玄公か、なんだか面白そうな人物だな。それに歴史マニアのオレは興味深々だよ」
虎が、カケルに冷たい目をはなって、
「左近、お主は会えぬぞ」
「えーーーーーー!」
「われらは、あくまで父上の護衛が任務だ。お館様の軍議の席には、四天王と呼ばれる、父上と、先の馬場様、内藤様、高坂様とあるが、此度は、高坂様は上杉の備えとして海津に残っておられるゆへ、後は、一門衆の先ほど武田家へ復籍されたお館様の跡継ぎと目される、諏訪勝頼殿こと、武田勝頼公。お館様の弟君で瓜二つのその容貌から影武者も務められる武田信廉殿、そして、娘婿の穴山信君様じゃ。ただ、今回はもしやすると、われとそなたも陣中に呼ばれるやもしれぬ……」
「うわ、ラッキー! 生の武田家家臣団に会える!!」
虎は、うっすら頬を染めて、
「そんなに嬉しいか左近よ」
「嬉しいも何もこんなチャンス二度とないよ」
「そうか、それならばワレも嬉しいぞ」
「うん?! 変だな虎さん、ほっぺた赤くしちゃって」
と、左近がからっかった。
「バカ者!」
虎は槍を旋風一番! 左近へ向かって振り下ろし、馬上から叩き落とした。
そこへ、サササツ! 一陣の風が吹き抜けた。風が吹きやむとそこには、黒装束の武田忍びが膝を折って、文を「山県昌景殿はどちらにございますか、嶋左近殿」とカケルへ差し出した。
「ああ、その声は、望月千代女さんだね」
「は、嶋左近殿、おみお知りいただけてありがたき幸せ」
ピクッ、ピック! なんだか、武田忍びの千代女と、親しく挨拶を交わすカケルの様子を見た虎は機嫌が悪い。
「左近よ、その文は誰からじゃ?」
「う~む、……達筆すぎて読めないや。ごめん、虎さん代わりに読んで?」
カケルから文を受けっとった虎は、一目見て、さっきほどまでの団欒とは打って変わって厳しい顔に切り替わった。
「これは、父上に宛てたお館様からの文じゃ」
パラリと文をほどいて、
「二俣城をお館様と先に合流した馬場様で取り囲んで置くゆへ、山県隊は、浜松からの補給線伊井谷城を攻めよとのことだ」
「伊井谷城?」
「井伊谷城は、長く伊井氏の居城であったが、今川と徳川の狭間でもみつぶされ、今は、近藤康用が籠っておるということじゃ」
「うむ、伊井谷攻めか」
と、カケルと虎の背後から野太い声がした。
「父上!」
「これはお館様のワシとお主たちへの配慮かも知れぬ」
「配慮?!」
「そうじゃ、若いお主たちに手柄を立てさせたいのじゃよ。ククククク……」
山県昌景と、虎のどこか謎めいた会話を、カケルはポカンとアホウのような間抜けた顔して聞いていた。
山県昌景が、カケルに、指令を飛ばす。
「嶋左近よ。お主はこれから山家三方及び先鋒隊3000を率いて伊井谷を攻めるのじゃ。付け家老として、広瀬景房と三科伝右衛門をつける。よいか、これからお館様と合流する三日以内に、お主と虎二人で知恵を絞って井伊谷城を攻略するのじゃ」
「えええーーーーーーっ!山県のおじさんのムチャぶりデターーーーーーーッ!!」
山県昌景は、カケルを熱く見つめて、ゆっくりとその両手を掴んで抱き起こした。
「よいか、嶋左近清興! この井伊谷城攻めは、お主をこの山県昌景の娘、虎の婿とする大事な初陣じゃ、心して戦功をあげよ」
つづく