第25章10話 偽善の女②──古傷の痛み
「……脱衣所に着替え、置いてあっただろうがよ……」
「ご、ごめんなさい……」
それきり、エマと白狼の間に奇妙な沈黙が落ちる。……なんというか、非常に気まずかった。
白狼は髪にワックスをつけておらず、サングラスもかけていない。そのせいか、いつもよりも五歳は若く見える。……十九歳の自分と、少しだけ年が近く、見えた。
(ど、どうしよう……)
今見たものを、言うべきか……。
今しか機会はないようにも、思えた。
明日の競売が終われば、エマと白狼の仕事は終わる。次、また仕事をするかどうかはわからない。でも──
「…………見たのか」
ぼそりと、白狼が言った。
質問ではなく、確認だった。
だからエマもこくりとうなずく。
白狼は「あー……」とめんどくさそうに頭を掻いた。スラックスの上に羽織ったシャツをはだける。今度は、エマも直視した。
奴隷売買の仲介人たる男の腰には──……引きつれた傷跡も痛々しい焼きごてがあった。
『今更、隠してもしょうがねぇ。……俺は奴隷出身者だ』
『逃亡奴隷……なの?』
『あぁ。もともと買われた先が奴隷制度のないノワールだったのが幸いした。俺ぁ、ノワールに密輸された奴隷だったのさ。そこで逃げ出したのを、今の頭領にひろわれた』
『…………』
密輸されて逃げ出した奴隷が、今度は同じく密輸される奴隷たちの売買の仲介人になった──その運命の皮肉。
かつての自分と同じ境遇の奴隷たちを救い出す──それが目的なのかとも、思った。
男の出した答えは、違っていた。
『……言っただろ、俺はあんたと違ってご大層な理由なんかねぇって。ただ──』
俺は弱っちい人間だから。
目の前で苦しんでるのが自分じゃないってだけで安心する。
あぁ、よかった。自分じゃなかった。
ぶたれるのも。
飢えるのも。
泣きさけぶのも。
痛みに苦しむのも。
暴言浴びせかけられるのも。
──俺は、こいつらとは違う。
『そう思うだけでほっとする。自分以外の他人が不幸になってるのを見ると、自分じゃねぇってだけで安心できる。夜、眠れるようになる。ただそれだけなんだよ……』
『……っ! そんなのって……』
自分と同じ境遇の奴隷たちなのに。
本来、救える立場なのに何もしない。
何もできないとハナからあきらめてる。
エマの胸に言いようのない嫌悪が湧き上がる。──その心中を見透かして、白狼は嗤った。
『なんで怒るんだよ。てめぇもそうだろう? 奴隷どもを見て、チラリとでも思わなかったか? ──あぁ、よかった。自分じゃなかった。自分よりもっと不幸な連中がいる。だから、自分はマシだ。こいつらよりシアワセな人間だ──ってな!』
『…………っ!』
バシン、という音がした。
気が付けば、白狼の頬を張り飛ばしていた。
『はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!』
自分に平手を食らわせた女を見て、白狼は皮肉げにニヤリと嗤う。
──エマにとって、それは事実上の敗北宣言だった。
白狼の言ったことが図星だったから激情を抑えられなかったのだ──……その敗北感に、全身の震えが止まらない。
『ひとつ、いいことを教えてやるよ、お嬢ちゃん。あんたがあの子どもにこだわる理由──……自分がおきれいな人間だって思いたいんだ。かわいそうな子どもに愛を振りまく優しい優しい自分を演じて、自分の心をなぐさめたいんだ。──そのために、あんたはあの子を道具として使う。てめぇの欲求を満たすためだけに』
『黙れぇ……っ!』
エマの目から涙がこぼれた。
白狼の言葉を否定できない。
……心のどこかでわかっている。
エマは英雄なんかじゃない。
ルリアも子どもも、すべてを救うことなんかできない。
本当は、自分のことだけで精一杯で。
誰かに優しさを振りまく余裕なんかどこにもない。
……それでも願ってしまったのだ。
ルリアの自由を。子どもの笑顔を。
エマ自身に、そんな力などなくても……。
泣き濡れたエマに、白狼は追い打ちをかけるように言った。
『俺ぁ、あんたみたいな偽善者が一番嫌いだ。おきれいで、情け深くて、一時だけの優しさに酔いしれて、そのくせ、肝心なところで手を放す。何の覚悟もできてねぇくせに、薄っぺらい愛を語って最後の最後に裏切る──だから、あんたはいつまで経っても『お嬢ちゃん』なんだよ……っ』
白狼の声が震える。
それが彼自身の経験してきた痛みだと、エマは気付かない。気付かないまま、逃げるようにして部屋を走り去る。
──白狼は追いかけなかった。
泣き濡れた女のいなくなった部屋で、壁にもたれてずるずると座り込む。
『ちっ! めんどくせぇ……』
……それは、自分自身への言葉だった。
エマの良心を揶揄して八つ当たりするしかなかったおのれへの憤り。
かつて自分自身に与えられなかった救いを、他の誰かが当たり前に与えられるのは業腹で……。
『…………ダッセェ』
顔をおおって、白狼は座り込む。
もう痛みを訴えることもなかった焼きごての古傷が思い出したように痛んだ。




