第25章9話 偽善の女①──甘やかな地獄
──この子が殺される……。
白狼と話したその日からエマは眠れなくなった。
当の子どもは鉄格子の檻の中、相変わらず虚空を見て「あーあー」と無邪気に笑っている。
たまにエマのことを「ママ」と呼んだ。「パパ」と呼ばれたはずの白狼は、あの日以来、子どものいる檻には姿を見せない。……ため息をついた。
『ルリア……。私、どうしたらいい……?』
遥か国境の彼方──ノワール王国にいるはずの少女が、エマのひとりごとに応えることはない。
理性で考えれば簡単だ。
この子どもの命など切り捨てて仕事に戻るのだ。
明日の競売に向けて、施設内の人員は慌ただしく動いている。
念入りに商品の準備がされ、普段は不潔な環境下にいる奴隷たちも──まるで家畜をまとめて洗うような乱暴なやり方ではあったが──洗い清められ、番号ごとに整理されていく。
白狼にこの子を買える可能性を打診してみたが、すげなく却下された。奴隷としての有用性を認められない、というのが理由だった。
渡された目録にもこの子の型番は載っていない。競売の商品としても出されない欠陥品……。
明日の競売が済めば、エマたちもここを発つ。
そして、この子どもには二度と会わない……。
でも──
(廃棄処分だなんて聞かなければよかった……)
本来なら、何の接点もなかった子どもだ。
廃棄処分になると聞かなければ、この施設を去っても、この子が生きていると信じていられた。
この子だけじゃない。
世界には同じような子どもが星の数ほどいるのだ。エマの人生と交わることのない──不幸な子どもたち。
ひとりだけを救ったところで何にもならない。それは、エマの自己満足でしかない。
──助ける気もねぇガキに自己満足で優しくするな。
──こんなガキでも、希望があればひとはそれにすがりつく。余計に地獄を見せるだけだ……。
……悔しいけれど、白狼は正しい。
たった数日通って、優しくして。
手遊び歌を教えて、「ママ」と呼ばれて喜んで。
──それは彼女の人生にとって何の救いにもならない。
ぬくもりを知らなければ、自分が凍えていることにさえ気付かなくて済む。
エマの自己満足で、ひとは救えない……。
『…………はぁ……』
自分の棺桶を引きずっているかのような陰鬱な気持ちで、あてがわれている宿舎に戻った──……ところで、思わぬことが起きた。
『──……っ!?』
何気なく開けたバスルームに、なんと白狼がいたのだ。
古傷だらけの背中が、湯気とともにエマの視界いっぱいに広がった。
思いがけずたくましい広背筋。いつもはオールバックにしていて、今はしどけなくシャワーの雫を垂らしている銀に近い白髪と、サングラスを外して見開かれた青灰色の瞳が間近にあって──
『きゃぁぁぁ……!』
『おまっ……! そりゃこっちの台詞だ!』
出てけ! と一喝されて、エマはバスルームから転がり出た。十歳近くも年上の男のひとの裸……。
聖堂で長いこと男女別々の生活をしていたエマにとって、異性の全裸を見るというのはなかなかの破壊力だった。心臓が喉から飛び出しそうに暴れ回っている。
シャワーの湯気でくもった鏡には、男の前面も映り込んでいて──
(お、思い出しちゃダメ。見なかったことに……!)
──しようとしても、自然と脳内再生されてしまう。
肩から胸にかけて走った古傷と、鍛えられた大胸筋。その下に自然と目がいって……。
(…………え?)
記憶の中で何かが引っかかった。
その正体に気付いて、エマの思考は止まる。
(……。今のって……)
バタン、とバスルームに続く脱衣所の扉が開いて、エマはビクリとする。
中から襟付きシャツに黒のスラックスという出で立ちの白狼が、不機嫌な顔で出てきた。




