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狼×光×深い霧


「君は、この国が好きか?」


 二人で調査を始め、一ヶ月くらい経ったくらいだろうか。神妙な顔で彼が尋ねてきた。彼にはあまり似合っていない顔だったのでよく覚えている。

 

 その日も机に大量の本を積み、呪術に関しての本を読み込んでいた。

 

 今の所、全くと言っていいほど成果はなし。古今東西の書籍を集めた図書館ではあるが、やはり呪術ともなると文献に乏しく、その概要や歴史に触れる程度の書しか存在しなかった。極稀に、呪術の使い方を名乗る本もあったが、中に載っていたのは、カエルと薬草を煮詰めて作る惚れ薬や藁で作る呪い人形など、どれもこれも胡散臭いものばかり。

 

 ルシスいわく、そもそも魔法として体系化されていないものを十把一絡げに『呪術』と言っているのだから、文献が少ないのは致し方ないことらしいが、流石にここまで情報が無いと意欲が失せてくる。


 そんな状況の中にルシスも気が萎えてきたのだろう、ダンは本を置くと、彼の質問に答えることにした。

 

 だが、「国が好き?」などと曖昧に訊ねられたところで、彼は熱心な国王党でも王国独立派でも無い。


「政治の話か?すまんが、そっちの話はよく分からん」


 ダンが素直にそう聞き返すと、ルシスはかしこまった態度を崩さないまま「すまない、質問が悪かった」と言って、再び質問した。「君は、今もこの国の人々が好きか?」


 本をめくるダンの手がピタリと止まる。そして彼は、眼前の眼鏡の男をその異形の瞳で睨んだ。


「それを、今の俺に聞くのか?何のために、俺がこうやって呪術の本を漁ってると思ってるんだ」

 

 彼が人目を避けながら呪いを解く方法を探しているのは、再び彼らの中に戻りたいからに他ならない。普通の生活を、人間としての生活を取り戻したいからだ。


「だが、君は、そいつらに酷い仕打ちを受けただろう?それで君は逃げるようにここに閉じこもったんだ。それでも戻りたいのか?君を傷つけた奴らの下に」


「そう簡単じゃねぇんだよ」ダンは深くため息を吐いた。冷や汗。目を瞬かせる。「確かに……最近は良い記憶が無い。だけどな……」


 吐瀉物と血の味が混じったような記憶が喉にかかって、彼は言葉に詰まりながら、ゆっくりと語り始めた。


「いい奴らだったんだよ……カラケシュは俺が育った街だ。ザダル通りのバーテン共は、訓練帰りにいつ行っても、旨い冷えた酒を出してくれる。その代わり飯は不味ぃけどな。ユート達と店の酒を空にして、翌日財布がすっからかんなんてよくある風景だ。で、よく一緒に飲んでたのが、造船所のアンドレとシモン、マルコ。ポーカー仲間で、間抜けなシモンをよく皆でカモってた」

 

 ダンは自分に言い聞かせるように続ける。

 

「カラケシュはずっと昔から港街でよ。漁師と水夫、それに船大工が多いんだ。俺も漁師の息子だ。両親はくたばっちまったが、街が育ててくれた。あいつらはみんな馬鹿で、ガラも良くねぇけど、人一倍情に厚くて、団結した時は多分騎士まとめても相手にならない位の力を持っていた。それこそ、毎年の大祭なんか皆で大騒ぎしながら……あぁ……あれは、楽しかったなぁ」


 煙草に手を出そうとするが、ルシスに手を止められる。椅子に持たれかかって不貞腐れたように続ける。


「デボラの商店は、街で一番繁盛してる店だ。デボラってのは店主で看板娘を名乗ってる……今じゃおばさんだけどな。いつも太陽みたいに明るい美人で、街に住むガキの憧れだった。お人好しで、俺が結婚する時なんか、家族でも無いのにでっけぇケーキと花束を用意しやがって……そういや、鋳造所で働くトウマスなんて、胸毛の量だけなら今の俺より毛深いぜ?ははっ……だが、技師としての腕は確かだ。俺の剣も奴の特注。王都に来る前、売っちまったがな……カラケシュは俺の街みたいなもんだった」


 彼の瞳の中には、未だ自分が人間だった頃の幸せな生活の幻想が映っていた。それは、カラケシュの街で過ごしてきた人生の思い出。


 しかし、現実には彼らはもう彼の側に居ない。皆、事情に差はあれ、ダンが狼に変わってから離れていった。

 

 彼が話している最中、ルシスは透徹とした瞳で彼の目を見つめいたが、やがて口を開いた。


「十数日、君の話を聞き続けて分かったよ。こんな書庫に閉じこもっていても無駄だと。君が人間に戻っても、君が好きだった彼らは、もう戻ってこない」


 冷ややかな口調で、彼はダンの幻想を唾棄する。ダンは、よもや自分の語りが全否定されると思っておらず、目を見開いたまま絶句してしまった。


「だってそうだろう?彼らは、ただ姿が少し変わったというだけで、君から離れたんだ。それは決して彼らが変わったのでは無く、元来、そういう醜い人間だったということ。だから、君が元の姿に戻っても、彼らは二度と自分から君の下へ戻ってこない。負い目引き目も感じて……」「てめぇッ!良くも俺の……ッ」


 ルシスが言い終える前に、ダンは彼に掴みかかった。しかし、握ろうとする拳に、どうしても力が入らない。


「『俺の』……なんだい?彼らは家族か?友人か?大切な存在か? どれでもないだろう?」



 言い返したかった。だが、どうしても言葉がでない。

 

 裏切られたという感情を否定できなかったのだ。なぜなら、それは事実だったから。


 ルシスは自分の服にかかるダンの手を払い、なおその眼差しを彼に向け続ける。


「だが、君は一人じゃない。君の側に居た人々は、まだ残っているはずだろう」


「でも、あいつらもいつか……」


「違うね。君が離れたんだ。避けられる前に自分から。そうして逃げるようにこの王都に来たんだ」


 ユートやサラ、それに騎士の仲間達、たしかに狼になった後もダンを想ってくれる人は居た。だが、ルシスの言う通り、ダンは意識的に彼らを避けていた。妻は妊娠中、ユートは副団長に抜擢されたばかり、迷惑をかけたくない思いも確かにあったが、それ以上に心の大部分を占めていたのは、醜い自分を見られたくないという安いプライド。そして、彼らに嫌われたくないという恐怖心。


 図星を突かれたダンは、ふっと頭に血が上り、机の上に重ねられた本の山を振り払って、書庫に怒号を響かせた。


「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ!お前に何が分かるッ!? 人間のお前にッ!」


 包帯越しの彼の目には涙が浮かんでいた。身体もふるふると震えている。

 

 人狼になってから、彼はずっと人々から向けられる悪意を黙って抱え込んでいた。それは、言い返したらもっと自分が排斥されるから。自分の居場所が永遠に無くなってしまうから。


 狼は、自分を襲った理不尽な運命に哭いている。

 

 彼は、助けてくれと心の半鐘を鳴らしている。


 ルシスにはそれが分かっていた。故に、彼が自分に対して向けた怒りを、慟哭を、ルシスは全てその身で受け入れる。


 彼の幻想を打ち破るのは今だと、ルシスは確信した。

 

 その視界を覆っていた深い霧は、たった今消え去った。


「君も人間だよ。ダン。他の誰がなんと言おうと」山水のように透き通った真っ直ぐな声。「姿が変わっても、君はずっと君のままだ。一人の弱い人間だ。なにも変わっていない」


 その言葉に、ダンは心を打たれたように毛を逆立てる。


「僕は、狼のような姿の君が好きだ。理不尽な運命に抗って進む君が好きだ……心の底から、君の意志を尊敬する」


 狼になってから自分を肯定してくれた人は、ルシスが初めてだった。


 包帯が解けていく、毛むくじゃらの頬に涙が絡んだ、狼の顔。


「お前は、離れていかないよな?」


 ルシスは一転、顔を緩め、そして微笑み、ゆっくりと頷いた。


「僕らはもう友達じゃないか、ダン」


 彼はダンに手を差し伸べる。


「さぁ、もうこんな薄暗い部屋に閉じこもるのはやめよう。外に出て、その狼の顔をうんと晒してやるんだ」


 心が揺さぶられ、涙を零していたダンだったが、いきなりの彼の提案に咳き込んで、別の涙が出てきた。


「なッ?いきなり何を言い出すんだ?こんな姿、晒したらまた……ッ!」

 

 しかし、ルシスはそんな彼を笑うこともせず、整然と透徹に、彼の進むべき道に示す。


「変わるべきは、この国の人々の方だよ。彼らの『君に対する』意識を変えてやるんだ」



──この後は、以前ライラに話した通り。彼は過去にしがみつく事を止め、遂に未来へと進むことに決めたのだ。そうして彼は、何年もかけて王都やカラケシュの人々に少しずつ認められるようになった。彼の人生に訪れた長い夜は、ようやく明けたのだ。


 時は現代へと戻り、夜。


 龍の背に乗って、狼は今も前へと進んでいる。


 かつての幻想を思い零れる涙は、向かい来る風に押され、渇いてゆく。

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