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HONEYCOMB  作者:


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第二話:甘い蜜と、歪んだ遺産

1

「……うう、もう一歩も動けません……愛先生、さすがに容赦がなさすぎます……」

深夜二時の「蜂の巣」執務室。蜜嶋綾はデスクに突っ伏し、半ば白目を剥いていた。床には、川崎市内の広大な土地を網羅した公図や、膨大な戸籍謄本が山積みになっている。

「何言っているの、綾。まだ全体の三分の一も終わっていないわよ」

蜂須賀愛は、一睡もしていないとは思えないほど完璧な美貌を保ったまま、冷徹にキーボードを叩いていた。その傍らには、すっかり冷め切ったブラックコーヒー。

「でもぉ、今回の相手、川崎の有名地主・犬飼いぬかい家ですよ? 先代が亡くなった途端、本妻の子と愛人の子が骨肉の争いを始めて……関係者が多すぎて家系図がスパゲッティみたいになってます……」

「だからこそ、むしり甲斐があるんじゃない」

愛はパチン、と冷ややかにエンターキーを押すと、冷徹な琥珀色の瞳を綾に向けた。

「どれほど血が繋がっていようが、金の前にひれ伏すのが人間よ。あの家族は、お互いを家族だなんて思っていない。ただの『遺産という名の蜜』に群がる群蜂むればちよ。なら、その蜜を誰が手にするか、私が決めてあげる」

その言葉に、綾はゾクゾクとした快感を覚え、思わず背筋を震わせた。厳しく冷たい言葉の裏にある、圧倒的な強さと、法への絶対的な信頼。これだから、彼女のパラリーガルは辞められない。

翌朝、事務所のドアが開くと同時に、重苦しい空気を纏った女性が入ってきた。

今回の依頼人、犬飼沙織(いぬかい さおり・32)。先代地主が愛人との間に儲けた「庶子」であり、本妻の息子たちから「一円も渡さない」と激しい嫌がらせを受けている女性だった。

「蜂須賀先生……やはり、私は諦めるべきでしょうか。兄たちから『お前は汚い血の人間だ。調停なんて起こしたら、川崎で生きていけなくしてやる』と脅されて……」

沙織は怯え、指を震わせている。

その様子をじっと見つめていた猶が、そっと温かいハーブティーを差し出した。

「沙織さん。法律はね、生まれた順番や、誰のお腹から生まれたかで人を差別したりはしないのよ。堂々としていなさい」

「社長の言う通りよ」

愛が立ち上がり、沙織の前に歩み寄る。そして、彼女の顎をクイと人差し指で持ち上げ、まっすぐにその目を見つめた。

「あなたには正当な権利(遺留分)がある。それを踏みにじろうとする有象無象うぞうむぞうを、私がどう仕留めるか……特等席で見ているといいわ」

2

数日後、犬飼本家に呼び出された愛と綾。

出迎えたのは、先代の本妻の長男であり、現在の犬飼家当主・犬飼一馬いぬかい かずまと、そのお抱え弁護士だった。

重厚な和室。一馬は横柄に胡坐をかき、愛を鼻で笑った。

「わざわざ『蜂の巣』なんていう、胡散臭い事務所の女弁護士を連れてくるとはな。沙織も大した度胸だ。だがな、蜂須賀先生、無駄だよ。親父の遺言書には『すべての土地と財産は長男の一馬に相続させる』とハッキリ書いてある。愛人の子に分ける金なんて、我が家には一円もないんだよ」

お抱え弁護士も、勝ち誇ったように遺言書のコピーを提示する。

「その通りです。遺言書は公証役場で作成された完璧なもの。覆すのは不可能ですな」

遺言書の絶対的な効力を前に、沙織は顔を青ざめさせ、俯いた。

しかし、愛は動じない。それどころか、和室の畳をヒールでコツンと鳴らし、妖艶な笑みを浮かべた。

「ふん……。相変わらず、頭の悪い男。遺言書があれば、すべてが自分の思い通りになるとでも思った? 勉強不足にも程があるわね、犬飼一馬さん」

「何だと……!?」

愛は綾に目配せをする。綾は待ってましたとばかりに、カバンから一冊のファイルを取り出し、一馬の前に叩きつけた。

「これは、あなたが過去5年間にわたって、犬飼家の資産管理会社から『使途不明金』として引き出していた全記録よ。総額、2億円。……主に、あなたのラスベガスでのギャンブル依存の補填に使われているわね」

一馬の顔から、一気に血の気が引いた。

「な、なぜそれを……! あれは会社の一時的な借り入れで……!」

「いいえ、立派な横領よ。さらに言えば――」

愛は一歩、一馬へと踏み込む。その鋭い眼光は、まるで獲物の息の根を止める直前の女王蜂そのものだった。

「先代が亡くなる直前、認知症を患っていた時期に、あなたが無理やり書かせた『別の覚書』の存在も掴んでいるわ。あなたは先代の財産を、生前に限界まで隠匿いんとくしようとした。……これは立派な『特別受益』にあたるの。そして、その隠匿された財産をすべて暴き出した上で再計算すれば……沙織さんが請求できる遺留分の額は、当初の予定の3倍に跳ね上がるわ」

「バ、バカな……! そんな古い記録、すべて処分したはずだ!」

一馬が叫ぶ。すかさず、後ろの綾がメガネをキラリと光らせた。

「処分したって、デジタルデータは嘘をつきませんよぉ。あなたが夜中にコッソリゴミ箱に捨てたハードディスク、川崎の不用品回収業者からキッチリ買い取らせていただきました。私のデータ復元技術をナメないでくださいね?」

「ひ、引き取ったって……泥棒じゃないか!」

相手の弁護士が声を荒げるが、愛はその言葉を冷たく一蹴した。

「言葉を選びなさい。業者が正当に所有権を得たジャンク品を、我が事務所が買い取っただけ。何の問題もないわ。――さあ、犬飼一馬。このまま裁判泥沼化させて、あなたの横領とギャンブル狂いを世間に公表するか、それとも、今すぐ沙織さんに正当な遺産と土地を譲渡する合意書にサインするか……どちらか選びなさい」

愛は、胸ポケットから一本の高級万年筆を抜き、一馬の目の前に突き刺すように置いた。

「私の針は、一度刺したら抜けないわよ。毒が回る前に、決断することね」

一馬はガタガタと震え、助けを求めるように自らの弁護士を見たが、その弁護士はすでに天井を見上げて、完全に匙を投げていた。

3

夜の「蜂の巣」。

無事に合意書への調印を終え、沙織は涙を流して感謝し、事務所を後にした。

「沙織さん、本当に嬉しそうだったわね」

猶が、愛と綾に特製の冷製スープを差し出す。

「当然よ。あの男の鼻を明かして、手に入るはずのなかった蜜をすべて吸い尽くしたんだから。……まあ、今回は綾の『ゴミ漁り』の執念のおかげね」

「ゴミ漁りって言わないでください! 合法的なサルベージですぅ!」

綾は文句を言いながらも、愛に認められたことが嬉しくて、スープを飲みながらふにゃふにゃとだらしない笑みを浮かべている。

「でも、愛先生。今回の件で、犬飼一馬は完全に破滅ですね。川崎の地主一族も、これで代替わりかぁ……」

「破滅? 自業自得よ。法を軽んじ、他人の血を啜ろうとした者が、逆にすべてを失う。これ以上ない綺麗な結末じゃない」

愛はワイングラスを傾け、窓の外の川崎の街を見つめた。

欲望が渦巻き、ドス黒い本音が法律という光によって暴かれる街。

「さあ、綾。休んでいる暇はないわよ。明日は、川崎南部で起きた『反社会的勢力絡みの地上げトラブル』の相談が入っているわ」

「ええっ!? 反社ですか!? もう命がいくつあっても足りません~!!」

頭を抱える綾を見て、愛はククッ、と愉しそうに、そしてどこまでも冷徹に微笑むのだった。


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