第一話:女王蜂の毒針
1
「……先生、あの、本当にこれでいくんですか?」
神奈川県川崎市、古びた雑居ビルの三階。
「蜂須賀法律事務所」――通称“蜂の巣”の執務室で、蜜嶋綾は怯えた声をあげた。手にしたタブレットには、明日開かれる離婚訴訟の最終弁論に向けた資料が映っている。
デスクの奥で書類に目を通していた蜂須賀愛は、視線すら上げずに冷徹な声を放った。
「何か問題でも、綾?」
「問題というか、その……これ、相手方の不貞の証拠、完全にトドメを刺しにいってますよね? 相手の弁護士、泣き崩れるんじゃないかと……」
「泣きたいのは不倫されたうちの依頼人よ」
愛が顔を上げる。整った端正な顔立ちに、一切の感情を排した琥珀色の瞳。その鋭い眼差しに見据えられ、綾は思わず「ひゃいっ」と情けない声を漏らして背筋を伸ばした。学生時代からの幼馴染であり、彼女のドSな洗礼を浴び続けてきた綾の身体は、すでにこの恐怖を快感…いや、義務として記憶している。
「裁判は綺麗事の発表会じゃない。法という名の檻の中で、どちらが正当に相手を仕留めるかの殺し合いよ。私は依頼人から高い報酬を受け取っている。なら、女王として完璧な勝利を収めるのは当然でしょう?」
愛はふっと唇の端を吊り上げ、冷酷で、どこか妖艶な笑みを浮かべた。
その時、執務室のドアがのんびりと開いた。
「あらあら、今日も活気があっていいわねぇ」
淹れたてのハーブティーが載ったトレイを手に、上品な笑みを浮かべて入ってきたのは、愛の母であり事務所社長の蜂須賀猶だ。元敏腕弁護士である彼女は、一線を退いた今もなお、その背中に圧倒的な修羅場のオーラを隠し持っている。
「愛、あんまり綾ちゃんをいじめちゃダメよ。綾ちゃんの優秀なリサーチがなければ、あなたのその鋭い針も、ただのハッタリになっちゃうんだから」
「いじめていません、教育です。ねえ、綾?」
「は、はい! 喜んで教育されてます!」
猶は「うふふ」と楽しそうに笑い、二人のデスクにカップを置いた。
「川崎の街はね、人間の『本音』と『建て前』が泥臭く交差する場所。法律という冷たい武器を、どうやって生身の人間のために使うか……。愛、あなたの女王蜂としての腕の見せ所ね」
「言われなくても。私の巣に入った獲物は、骨の髄まで絞り尽くしてあげるわ」
愛はティーカップを傾け、不敵に微笑んだ。
2
翌日、横浜地裁川崎支部の法廷。
今回の案件は、大手企業の会社員である夫から、長年連れ添った妻への離婚請求。夫側は「妻の異常な束縛と精神的虐待により婚姻関係は破綻している」と主張し、慰謝料まで請求してきていた。
愛が弁護するのは、その妻・高橋美津子(45)。疲れ果て、法廷の席で小さく震えている。
対する夫側の弁護士は、業界でも有名なやり手のベテランだった。
「原告は長年、被告の度重なる執拗な監視に怯えて生活してきました。すでに別居して一年が経過しており、婚姻関係の継続は不可能です!」
ベテラン弁護士の朗々とした声が法廷に響く。傍聴席の空気が、じわじわと夫側に傾いていくのが分かった。
しかし、被告席に座る蜂須賀愛は、退屈そうに爪を眺めているだけだった。
隣に座る綾が、事前に完璧に揃えた「裏の証拠」が入ったファイルをそっと差し出す。愛はそれを受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「裁判長。原告代理人は『婚姻関係の破綻』を主張されていますが……そもそも、その原因を作ったのはどちらでしょうか?」
愛の声は、低く、冷たく、そして信じられないほど明瞭に響き渡った。
「原告は、被告の束縛から逃れるために別居したと主張しています。しかし、別居当日から、原告の銀行口座から『川崎駅近くの高級タワーマンション』の家賃が引き落とされています。名義は、原告の部下である20代の女性です」
法廷がざわついた。夫の顔色が目に見えて変わる。
「それは、ただの社宅としての処理で……!」
相手の弁護士が遮ろうとするが、愛はそれを鋭い眼光で制した。
「静かに。私が話しているのよ」
その一言で、法廷の空気が凍りついた。まるで冷徹な女王が、不敬な臣下を黙らせたかのような絶対的な威圧感。
「綾、次の資料を」
「は、はいっ!」
綾が素早くタブレットを操作し、法廷のモニターに映し出したのは、膨大なSNSのスクリーンショット、そして深夜にタワーマンションへ入っていく夫と若い女性の鮮明な写真だった。
「これらはすべて、原告が別居『以前』からその女性と深い関係にあった証拠です。つまり、婚姻関係を破綻させたのは被告の束縛ではなく、原告の計画的な不貞行為。――高橋先生、この期に及んで『被害者』を演じるのは、いささか滑稽が過ぎませんか?」
「くっ……! し、しかし、これはプライバシーの侵害、違法な調査によるものでは……!」
相手の弁護士が声を荒げる。愛はふっと鼻で笑った。
「違法? 冗談言わないで。すべて公道、および規約に基づいた公開情報からの合法的な追跡よ。我が事務所のパラリーガルを侮らないでもらえるかしら。ねえ?」
後ろで綾が「ふふん」と、少し誇らしげに(そして愛に褒められて悦びながら)胸を張った。
愛は一歩、原告席へと近づく。その歩みは、獲物を追い詰める肉食獣のそれだった。
「あなたたちが提示した『妻の束縛』とされる日記のデータ……あれ、改ざんされていますよね? 元のタイムスタンプを解析したところ、あなたが不倫相手と旅行に行っていた日にちと見事に一致しました。妻を精神異常者に仕立て上げ、一銭も払わずに放り出そうとした……。人間の欲深さには反吐が出るわ」
愛の琥珀色の瞳が、夫を真っ向から射抜いた。
「法を悪用して弱者を踏みにじろうとした罰よ。慰謝料五百万円、および財産分与の徹底的な見直し。……一円たりとも、値引きは認めないわ」
夫はガタガタと震え、ついに机に両手を突いてうなだれた。相手のベテラン弁護士も、完全に戦意を喪失し、書類を落とした。
裁判長が、厳かに閉廷を告げる。
女王蜂の針が、完璧に獲物を仕留めた瞬間だった。
3
夕暮れの川崎。
蜂須賀法律事務所に戻った一同は、依頼人からの感謝の電話を終えたところだった。
「見事だったわね、愛。相手の改ざんを見抜くなんて」
猶が温かい紅茶を淹れながら、愛を称賛する。
「当然よ。私を誰だと思っているの。……でも、今回は綾のデジタルフォレンジック(鑑識調査)の執念の勝ちね。よくやったわ、綾」
愛が珍しく素直に褒め言葉を口にすると、綾は顔を真っ赤にして、悶えるように身悶えした。
「あ、愛先生に褒められた……! ありがとうございます! あの地味なタイムスタンプの照合、徹夜でやった甲斐がありましたぁ!」
「ふん、調子に乗らないで。明日からはまた別の案件よ。次は川崎の地主一族の遺産相続争い。人間のドス黒い本音が、これでもかってくらい渦巻いているわ」
愛はデスクに足を組み、窓の外に広がる川崎の夜景を見下ろした。
ネオンが怪しく光る街。そこには、法で裁かれるべき悪と、法にすがるしかない弱者が今日もひしめき合っている。
「さあ、次の獲物は誰かしら」
女王蜂は、妖しく、そして誰よりも気高く、夜の闇に向かって微笑んだ。




