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第9話 病院のベンチ

 昨日の雨に濡れたのが悪かったのだろう。


 ひまりは夜中から熱を出し、朝になっても下がらなかった。


 仕事を休んだ紬に連れられて、ひまりは町の総合病院へ来ていた。


 待合室のベンチで、ひまりは紬の膝に頭を乗せて横になっている。


 額に貼られた冷却シートが冷たかった。


 熱でぼんやりする意識の中、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「ひまりちゃん?」


 重たいまぶたをゆっくり開ける。


 見慣れた顔が、心配そうに覗き込んでいた。


「……みよ、さん」


「あら……ひどい熱ね」


 美代はそう言って、ひまりの額にそっと手を当てた。


 その手は驚くほど温かかった。


 紬が立ち上がり、小さく頭を下げる。


「叔母の、紬です。ひまりがいつもお世話になっています」


「こちらこそ」


 美代も静かに頭を下げた。


「私は定期健診なの。公園で会うひまりちゃんと違って、今日はずいぶん元気がないわね」


 ひまりは答える代わりに、紬の服をぎゅっと掴いた。


 子どもらしい仕草だった。



 診察を終え、薬を待つ間。


 ひまりは紬の肩にもたれたまま眠っていた。


 熱のせいで赤くなった頬を見つめながら、紬は何度もその髪を撫でている。


 待合室には、時計の針の音だけが静かに響いていた。


「昨日、公園で話してくれたんです」


 美代が小さな声で言った。


「学校で、家族の絵を描いたって」


 紬の手が止まる。


「お父さんと、お母さんと、ひまりちゃんと、紬さんの4人を描いたそうよ」


 紬は俯いた。


 長い沈黙のあと、震える声で呟く。


「あの子……私も描いてくれたんですね」


 その言葉に、美代は静かに頷いた。


「嬉しそうだったわ」


 紬は唇を噛み締める。


 何かを堪えるみたいに。


「……姉夫婦と、ひまりの3人で出かけた帰りだったそうです」


 ぽつりと落ちた声は、とても静かだった。


「突然、対向車がセンターラインを越えてきて……」


 そこで言葉が止まる。


 紬はゆっくり息を吐いた。


「義兄は最後に、ひまりを守ろうとしてハンドルを切ったそうです」


「姉も、後ろの席で、ひまりを抱きしめていたって」


 紬の声が少し震えた。


「だから……ひまりだけ、無傷でした」


 美代は何も言わない。


 ただ静かに聞いていた。


「病院で目を覚ました時、ひまりは最初に、“お母さんは?”って聞いたんです」


 紬は、ひまりの小さな手を包み込む。


「私は……何も言えませんでした」


 声が、少し掠れる。


「7歳の子どもに、なんて説明したらいいのか分からなくて」


 紬は下を向いたまま続けた。


「今でも、“遠いところに行った”って言っています」


「もし本当のことを全部話したら、ひまりがどうなってしまうのか分からないんです」


 紬は笑顔でいようとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「だから私、必死なんです」


「朝ごはん作って」


「学校行かせて」


「髪結んで」


「熱出したら病院連れてきて」


「ちゃんと生きていけるようにって」


 紬は、自分でも気づかないうちに涙をこぼしていた。


「でも時々、分からなくなるんです」


「私は姉の代わりになれてるのかなって」


 その時だった。


 眠っていたひまりが、小さく身じろぎする。


 それから、熱に浮かされた声で呟いた。


「……つむぎ、ちゃん」


 紬が慌てて顔を上げる。


 ひまりは目を閉じたまま、紬の服を握りしめていた。


「いかないで……」


 紬の喉が、小さく震える。


「ここに、いて……」


 掠れた声だった。


 それはきっと、事故の日からずっと胸の奥に残っていた言葉だった。


 紬はひまりを抱きしめる。


「いるよ」


 涙声で、何度も頷きながら。


「大丈夫。どこにも行かないから」


 ひまりは安心したように、小さく息を吐いた。


 その顔は、少しだけ穏やかになった。


 美代は何も言わなかった。


 ただ、泣いている紬の背中を静かに撫でていた。


 病院の窓の外では、昨日から降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。


 薄い雲の向こうに、静かな青空が広がっている。


 まるで遠くから。


 誰かが、2人を見守っているみたいだった。


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