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第8話 ひまりの引き出し

 その日は、朝から雨が降ったりやんだりしていた。


 夕方になってようやく雲の隙間から光が差し込んだけれど、公園の地面はまだ濡れている。


 ベンチの水を佐伯がタオルで拭いていた。


 そこへ、美代がいつも通りのんびり歩いてくる。


 春人は学校帰りのカバンを肩にかけ直しながら、2人に挨拶をした。


 4人の場所。


 けれど今日は、まだ1人足りない。


「ひまりちゃん、遅いわね」


 美代が時計を見ながら呟く。


「図書館で本でも選んどるんちゃうか」


 佐伯が缶コーヒーのプルタブを開けた。


 叔母さんの仕事が終わるまで、近くの図書館で時間を潰している。


 ひまりは、いつもそうしていた。


 けれど佐伯と美代は、前からなんとなく気づいていた。


 ひまりの口から、お父さんやお母さんの話が1度も出てこないことに。


 子どもの話には、普通ならどこかに家族の気配が混じる。


 けれどひまりの会話には、いつも「自分」しかいなかった。


 確信があるわけではない。


 ただ、大人の勘のようなものが、2人の胸の内に小さな引っかかりを残していた。


 ザッ、と砂利を踏む音がした。


 見ると、ランドセルカバーを濡らしたひまりが、ゆっくり歩いてくる。


 いつもなら走ってくるのに、今日は足元を見つめたままだ。


「ひまりちゃん、こっちおいで。拭いてあげる」


 美代が優しく声をかける。


 ひまりはベンチの前で立ち止まると、ランドセルの肩紐をぎゅっと握った。


 それから、思い出したように顔を上げる。


「……あのね」


 小さな声だった。


 何かを言い淀むように、靴の先で地面の泥をいじっている。


「どうしたんや」


 佐伯の声は、いつも通りだった。


 急かさず、ただそこに置いておくような声。


「今日ね、学校で、家族の絵を描いたの」


 ひまりはぽつりと言った。


「授業で、みんなで描く時間があって」


 前にひまりは、絵を描くのだと楽しそうに話していた。


 だから春人は、今の沈んだ様子がうまく理解できなかった。


「上手に描けた?」


 美代が尋ねる。


「うん。でもね、みんなのお母さんかお父さんが学校に来るんだって」


 ひまりはランドセルを背負い直した。


「来週の参観日に。みんな、どっちか来るって言ってた」


 そこで言葉が止まる。


 寂しそうというより、不思議そうな顔だった。


 どうして自分だけ違うのだろう。


 そんなふうに考えている目だった。


「ひまりちゃんのお母さんは、お仕事忙しいん?」


 春人が何気なく聞いた。


 その瞬間、佐伯が春人を一瞬だけ見た。


 春人は、自分の言葉が何かを踏み越えてしまった気がして、指先が冷たくなる。


 ひまりは、しばらく雨上がりの空を見つめていた。


 不器用に、一生懸命、頭の中の引き出しから言葉を探しているようだった。


「お母さんね、遠いところにいるの」


 ひまりは静かに言った。


「お父さんも、一緒」


 佐伯と美代は驚かなかった。


 やっぱりそうだったのかと、静かに受け止めるように、次の言葉を待っていた。


「だから今は、(つむぎ)ちゃんと住んでる」


 ひまりは自分の手を見つめる。


「お母さんの妹の紬ちゃん」


「すごく静かな人。あんまり喋らないの」


 そこで少し笑った。


「でも、お母さんとはいっぱい喋ってた」


 春人は、カバンを持つ手に力が入るのを感じた。


 高校生の自分には、かける言葉が見つからなかった。


 けれど佐伯は、いつものように缶コーヒーを1口飲んでから言った。


「そうか」


「お母さんの妹さんなら、きっと優しい人なんやろな」


 ひまりの目が、ぱちりと動く。


「うん」


「笑うと、お母さんに似てる」


「じゃあ明日の予定、決まったな」


 佐伯が立ち上がる。


「え?」


 ひまりが首をかしげた。


「その絵、紬ちゃんに見せたれ」


 佐伯はひまりの頭を、大きな手でぽんと叩く。


「きっと喜ぶ」


 ひまりは目を丸くして、それから笑った。


「うん……見せる」


「明日の朝ごはんの時に見せる!」


 美代が隣で、とても優しく微笑んでいた。


 夕方の光が、濡れた公園の地面を静かに照らしている。


 春人はひまりの後ろ姿を見ながら、大人の優しさの深さを知った気がした。


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