第7話 変なクセ
その日、美代は少し遅れて公園へやってきた。
歩く速さが、いつもより少しゆっくりだった。
「大丈夫ですか?」
春人が聞く。
美代は穏やかに笑った。
「今日は病院が混んでたの」
ベンチに腰を下ろす。
その動作だけ、ほんの少し慎重だった。
佐伯は何も聞かない。
ただ、少しだけ端へ寄った。
美代が座りやすいように。
ひまりはランドセルをごそごそ探っている。
「はい」
小さな飴を差し出した。
「疲れた時はこれ」
美代は少し驚いた顔をした。
「私、疲れてるように見える?」
「ちょっとだけ」
ひまりは正直に言った。
一瞬だけ沈黙。
それから美代は、小さく笑った。
「じゃあ効きそうね」
飴を受け取る。
ひまりは満足そうに頷いた。
風が静かに吹いていた。
春人は、美代の横顔をなんとなく見ていた。
前より少し痩せた気がする。
でも、美代はいつも通り笑っていた。
「美代さんは、死ぬの怖い?」
ひまりがふいに聞いた。
突然の質問だった。
春人は少し驚く。
でも美代は、困ったように笑っただけだった。
「難しい質問ね」
少し空を見る。
「でもね、昔よりは怖くないの」
「なんで?」
ひまりが首をかしげる。
美代は少し考えてから言った。
「うちの人がね」
「最後まで、穏やかだったのよ」
佐伯が静かに顔を上げる。
「旦那さんですか」
「ええ」
美代は懐かしそうに笑った。
「あの人、変なクセがあってね」
「くしゃみする前に、絶対“あっ”って言うの」
「え?」
春人が思わず聞き返す。
「たまに“はっ”の時もあったわね」
ひまりが吹き出した。
「なにそれ!」
「しかも結構長いのよ」
美代は少し真似をする。
「“あっ…………くしゅん!”って」
ベンチに笑いが広がる。
佐伯まで肩を揺らしていた。
「予告付きやん」
「そうなの」
美代も笑う。
「だから先に身構えられるのよ」
少し笑ったあと、美代は空を見る。
「あの人、花の名前とか全然知らなかったの」
「でも香りが好きでね」
「花屋の前を通るたび、立ち止まるのよ」
夕方の風が静かに吹く。
「“この花、ええ匂いやなぁ”って言うんだけど、毎回名前は覚えてないの」
「じゃあ同じ話ずっとしてたんですか?」
春人が聞く。
「ずっとしてたわ」
美代は穏やかに笑った。
「でも不思議と、嫌じゃなかったの」
少し間。
「入院してからもね、私の前では辛そうな顔しなかった」
声は静かだった。
「痛い日もあったはずなのに、“明日の昼ご飯どうする?”って聞くの」
春人は黙って聞いていた。
「最後の日まで、“明日は何食べようか”って話してたわ」
風が吹く。
遠くで子どもの笑い声がした。
「旦那さんは、亡くなること怖くなかったんですかね」
春人は静かに聞いた。
美代は少しだけ空を見上げる。
「亡くなったあとにね、看護師さんから聞いたの」
風が静かに吹く。
「あの人、私がいない時どうでしたかって聞いたら」
少しだけ笑う。
「“どんなに辛そうな時でも、奥さんには言わないでくれ”って、ずっと言ってたらしいの」
春人は黙って聞いていた。
ひまりも今日は静かだった。
「それでね」
美代は続ける。
「自分が死ぬことより、“妻を残してしまうのが不安で、寂しくて、それが辛い”って言ってたみたい」
夕方の光が少しずつ弱くなっていく。
「だからたぶん、“怖い”とは少し違ったのかもしれないわね」
美代はゆっくり笑った。
「“長く生きてこれたことに感謝してる”って、よく話してたらしくて」
「その話のほとんど、私のことだったみたい」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
風だけが静かに流れていく。
佐伯が缶コーヒーを見つめながら、小さく言う。
「ええ旦那さんやな」
美代は少し照れたように笑った。
「変な人だったけどね」
ひまりがぽつりと言う。
「でも、なんか優しい人」
「そうね」
美代は静かに頷いた。
「優しい人だった」
春人は空を見上げる。
死はもっと暗くて、怖いものだと思っていた。
でも今、美代が話しているのは“死”より、“一緒に生きていた時間”の話だった。
そのことが、なぜだか心に残った。
公園に夕暮れが落ちていく。
明日はまだ来ていない。
それでも。
誰かと明日の話をできることは、少しだけ生きる理由になる気がした。




