第10話 迷子のアドバイス
その日の夕方は、雲ひとつない高く澄んだ空が広がっていた。
公園の空気は澄んでいて、吹く風が少しだけ涼しかった。
ベンチには、佐伯と春人の2人だけが座っていた。
いつもなら一番に駆け寄ってくるひまりの姿は、まだない。
「ひまりちゃん、今日は遅いですね」
春人がカバンの紐をいじりながら呟いた。
「普段明るくてしっかりしとるから忘れそうになるけど、ひまりはまだ小学2年生やからな。家族の絵の話で、気持ちが沈んどるんかもしれん」
佐伯は缶コーヒーを口に運び、少し心配そうに言った。
その横顔を見つめながら、春人は胸の奥で温めていた質問を口にする。
「佐伯さん」
「ん?」
「社会人って、やっぱり大変ですか」
突然の問いに、佐伯は缶コーヒーを持ったまま動きを止めた。
春人は視線を地面に落とす。
「大学には行っておいたほうがいいって、先生は言うんです。いい会社に入れる可能性が高くなるからって」
「でも、佐伯さんを見てると、立派な大人になっても迷子になるんだなって思って。……あ、悪い意味じゃないです」
佐伯は呆れたように息を吐き、それから小さく笑った。
「分かっとるわ」
「……そうやな。大変やで。毎日同じ時間に起きて、頭下げて、理不尽なことで怒られてな。何のために働いとるんか分からんくなる日はいくらでもある」
春人は黙って佐伯の言葉を聞いていた。
「でもな、春人」
佐伯は空を見上げた。
「俺は、お前に大学へ行ってほしいと思っとる」
「え……? 佐伯さんも、先生と同じことを言うんですか」
意外な言葉に、春人は顔を上げた。
「同じやけど、意味が違う」
佐伯は缶コーヒーをベンチに置いた。
「いい会社に入るためやない。迷子になるための時間を稼ぐためや」
「時間を稼ぐ?」
「おう。高校を出てすぐ社会に出ると、毎日の予定に追われて、自分の明日を考える暇もなくなる」
「でも大学にいれば、社会に出るまでの準備ができる。いっぱい悩んで、いっぱい間違えて、自分がどんな予定を立てたいのかをじっくり探せばええ」
「だから、まだ白紙のままでええから、進学してみろ」
春人は喉の奥が熱くなった。
未来を決めろと迫る大人たちの中で、佐伯だけは「迷子になるための時間のつくり方」を教えてくれた。
カバンの中にある白紙の進路希望調査票が、急に温かさを持った気がした。
「私も迷ったら、佐伯さんに相談しようかしら」
背後から、聞き慣れた上品な声がした。
振り返ると、美代がゆっくりと歩いてきていた。
どうやら途中から2人の話を聞いていたらしい。
「美代さん」
春人が立ち上がり、席を空ける。
「ありがとう、春人くん」
美代はベンチに腰を下ろした。
「社会人の先輩からの、素敵なアドバイスね。私も大賛成よ」
「勘弁してください。ただの世間話ですわ」
佐伯は照れくさそうに頭をかき、新しい缶コーヒーを買いに自販機へ向かった。
美代はその背中を見送ってから、隣の春人に視線を戻す。
「春人くん。未来を恐れる必要なんてないのよ」
「私たちは、明日新しいアイスを買うだけで、もう一歩前に進めているんだから」
春人は頷いた。
美代の言葉は、いつも今の自分を救ってくれる。
やがて、佐伯が戻ってきた。
3人の間に、いつもの静かな時間が流れる。
「……そういえば、ひまりはまだ来ないな」
佐伯が手元の時計に目を落としながら、ぽつりと言った。
美代は静かに微笑み、どこか深い慈しみと、祈るような色をその瞳に浮かべた。
「なんか心配やな。大丈夫かな、ひまり」
佐伯は落ち着かない様子で、缶コーヒーを両手で包み込む。
「ええ、本当に。でもあの2人なら、大丈夫よ」
「昨日、病院でひまりちゃんと叔母さんの紬さんに会ったの」
「雨に濡れて風邪をひいたみたいでね。だから今日は来られないと思うわ」
美代の話を聞いて、佐伯と春人はひと安心する。
春人もまた、ひまりを心配していた。
言葉にはしなかったけれど、どこか妹のように感じていた。
その温かい感情だけは、夕暮れの空に溶けていくように、優しく胸に残った。




