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第32話 不器用な言葉

 その夜は佐伯が知っている中で一番オシャレなバーへ、リサを連れてきていた。


 落ち着いた照明の下で、グラスの中の氷が小さく鳴る。


 その音だけが、妙に耳に残る静けさだった。


「なぁ、リサさん」


「はい」


 いつもより少し落ち着いた声で、リサが返す。


 佐伯は一度だけ息を吐いて、グラスを見つめた。


「最近な、ちょっと考えること多くてな」


 その声は、いつもの軽さがなかった。


 リサは何も言わず、そのまま待った。


「つまらん話かもしれへんけど、聞いてほしい」


「俺な、昔は将来って“勝手にそうなるもん”やと思ってたんよ」


 グラスを軽く回す。


「働いて、そのうち誰かと出会って、気づいたら結婚してて」


「家族できて、子どもいて、そういうもんやって」


 少し笑う。


 でもその笑いは、どこか遠い。


「でもな」


「それ、全部“自然に起きるもん”ちゃうかった」


 視線を落とす。


「結婚って、気づいたらできてるもんやなくて」


「ちゃんと自分で選んでいくもんやって、やっと分かった」


 リサは相槌をしない。


 ただ静かに、聞いている。


「じつは、俺な」


「婚活とかも、ちょっとやってて」


 少しだけ言いにくそうに苦笑いする。


「この歳で何してんねんって話やけどな」


「でも、それが今は必要やって思ってて」


 氷が揺れる音が小さく響く。


「でも最近、ちょっと変わってきてな」


「ひまりとか春人とか見てて思ったんやけど」


「未来って、勝手に用意されてるもんちゃうんやなって」


 一度言葉を切る。


「当たり前やと思ってた結婚とか家族とかも」


「ほんまは諦めずに悩みながら、自分で選んでいくもんやったんやなって」


 リサの視線が、ほんの少しだけ揺れる。


「それでな」


「変な話やけど」


「そういうの探すの、やめようかなって思ってん」


 少し間。


「“結婚するために誰か探す”って考え方そのものをな」


 静けさが落ちる。


「今はな」


「リサさんと一緒におる時間とか」


「みんなと過ごしてる時間の方が」


「よっぽど大事やなって思ってる」


 リサはその言葉を、ゆっくりと受け取っていた。


 意味は理解している。


 全部ちゃんと分かっている。


 それでも、そのひとつひとつが胸の奥に静かに沈んでいく。


 嫌な感覚じゃない。


 むしろ、静かに熱を持つような感覚だった。


「迷惑やと思う」


 佐伯は少しだけ苦笑する。


「勝手に考え方変わって、勝手に話してるしな」


「リサさんからしたら、急にこんな話されても困るよな」


 グラスを置く音が、小さく響く。


「でもな」


「ちゃんと伝えときたかってん」


 佐伯はリサを見た。


 まっすぐに。


「俺は今、リサさんとみんなのこと、大事に思ってる」


 一瞬、空気が止まる。


「これが何なんか、うまく言葉にはできへん」


「でもな」


「一緒におる時間が、なにより大事やと思ってる」


 リサはその言葉を静かに受け取る。


 だからこそ、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 その感情を、まだ言葉にはできない。


 でも確かにそこにあった。


 リサは小さく言う。


「Saeki-sanは、あたたかい人です」


 佐伯は少し笑う。


「そうですか」


 リサはグラスを見つめたまま続ける。


「でも」


「嘘はないと思います」


 その言葉で、佐伯の肩の力が少し抜ける。


 店を出ると、夜の風が頬を撫でた。


 2人は並んで歩く。


(さっきの言葉)


 リサは心の中で思う。


(ひとつひとつは静かで)


(どうして、こんなにも心に残るのでしょう)


 佐伯は前を向いたまま、軽く言う。


「まぁ、勝手に話しただけやから気にせんでええで」


 リサはその横顔を見て思う。


(勝手に、ですか)


(不器用なのに、自分で言葉を選んで話してくれた)


 夜道に、2人の影が伸びていく。


 リサの胸の奥の温もりは、夜風の中でも消えることはなかった。

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