第三十五話:少しずつ変えていたら、街が少しだけ変わっていた件
グランヴェルに来て、五日が経っていた。
帝国へ向かうはずが、なんとなく足が止まっていた。
理由はわかっていた。
まだ変えていないものが、あった。
◇ ◇ ◇
朝の市場を歩くと、変化がわかった。
食料の配布が、すっかり当たり前になっていた。
商人が余り物を渡す。
孤児が受け取る。
それだけのことだが、三日前とは空気が違う。
孤児たちの顔が、少し違った。
昨日より、少し元気そうだった。
「昨日より活気がありますね」
エルシアが言った。
「ここ数日で変わりましたよね、この辺り」
「そうだな」
「何か変わったんですかね。街の空気が少し違う気がして」
「さあ」
恒一は短く答えた。
理由はわかっていた。
でも言えなかった。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
恒一は一人で市場の端を歩いていた。
エルシアもシュラもリリスも、宿に戻っている。
一人の方が、考えやすかった。
市場の奥を見た。
奴隷商会の区画が見えた。
あの区画は、まだそのままだ。
一人の商人の価値観を変えただけで、制度は残っている。
借金奴隷は今日も売られている。
孤児は今日も路地にいる。
まだ変わっていないものが、ある。
恒一は歩き出した。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
恒一はノートを開いた。
今日書いたのは二文だった。
『《グランヴェル》では、借金の肩代わりとして未成年を差し出す契約は、良識ある商人なら避けるものだという認識が広まっている』
『《グランヴェル》の孤児院や施設に寄付をすることは、商人として評判が上がる行為だという認識が自然に根付いている』
大きな改変ではない。
制度を破壊するわけでもない。
ただ、少しずつ。
商人たちの中に、新しい常識を植えていく。
誰も気づかない。
誰も不思議に思わない。
恒一はノートを閉じた。
窓の外を見た。
《グランヴェル》の夜が静かに流れていた。
この街で、小さなものが積み重なっていた。
恒一はそれを、確かに感じていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
翌々日。
その翌日も。
恒一は小さな改変を続けた。
一日に一文か二文。
急がなかった。
急ぐ必要はなかった。
少しずつなら、世界は壊れない。
そう思っていたから。
◇ ◇ ◇
五日目の夕方。
エルシアが恒一に声をかけた。
「コウイチさん、そろそろ出発しませんか」
「ああ、そうだな」
「帝国に行くんですよね」
「そうだった」
「師匠はずっと前から行く気でいますし、リリスちゃんも特に意見はなさそうですし」
「わかった。明日出発しよう」
エルシアは少し安心したような顔をした。
「この街、思ったより居心地が良くなりましたよね」
「そうか?」
「最初より、なんか、穏やかな感じがします。うまく言えないんですけど」
恒一は頷いた。
「そうだな」
「旅に出るのが少し惜しい気がするのは、私だけですかね」
「俺もそう思う」
エルシアが少し笑った。
「正直に言ってくれるんですね」
「嘘をつく理由もないから」
恒一は夕焼けに染まった街を見た。
来た時とは、少し違う街になっていた。
誰も気づいていない。
ただ、少しだけ。
確かに変わっていた。
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