第三十四話:少女が泣いた。それだけで、全部肯定してしまった件
翌朝。
食堂で朝食を取っていると、エルシアが少し言いにくそうに言った。
「今日、市場の方を通るなら、一か所だけ近づかない方がいい場所があります」
「どこだ」
「奴隷商会の区画です」
テーブルが少し静かになった。
「私はできれば通りたくないんですが」
エルシアは正直に言った。
「見ていて気分が良くないので」
シュラが椀を置いた。
「面白そうじゃな」
「面白くないですよ師匠」
「そうか?」
「そうです。絶対そうです」
シュラはもう立ち上がっていた。
エルシアは深いため息をついた。
「……行くんですね」
「うむ」
「わかりました。私も行きます。一人にしたら何をするかわからないので」
リリスが恒一の隣で木の実を食べていた。
「お父様は?」
「……俺も行く」
どうせ後で聞かされるなら、自分の目で見た方がいい。
そう思った。
◇ ◇ ◇
奴隷商会区画は、市場の東端にあった。
表通りとは、空気が違った。
まず、音が違う。
市場の賑わいが、ここだけ遠くなる。
そして。
柵。
鎖。
木の檻。
恒一は足を止めた。
柵の内側に、人がいた。
獣人。
亜人。
人間も何人か。
年齢も様々だった。
子供もいた。
商人たちは普通に値段を交渉していた。
護衛の兵士が退屈そうに槍を持って立っている。
買う側の人間が、檻の前で指差して何かを話している。
誰も悪びれていなかった。
本当に、誰も。
「……普通に商売してる」
恒一が呟いた。
「ここではそうなんです」
エルシアが静かに言った。
「帝国圏では合法です。借金の肩代わり、孤児の引き取り、戦争捕虜。理由も色々あります」
「全員が不幸なわけじゃない、ということか」
「そうなんです。この制度で家族が生き延びた例もありますし、商人の中には奴隷に食事を与えて丁寧に扱う人もいます。だから一概に全部が悪とは……」
エルシアは言葉を切った。
「言えないんです。それが余計につらいんですけど」
シュラは区画を眺めながら、酒を飲んでいた。
「昔からある仕組みじゃな」
「師匠、知ってたんですか」
「何百年も生きておれば色々見る」
「どう思いますか」
「どうとも思わん」
エルシアは少しだけ眉をひそめた。
「……そうですか」
「強い者が弱い者を使う。世界はずっとそうじゃった。変わったこともあるが、変わらんこともある」
シュラは淡々と言った。
「良い悪いより、それが現実じゃ」
恒一は黙って聞いていた。
◇ ◇ ◇
区画の奥へ進んだ時。
一つの檻の前で、足が止まった。
獣人の少女がいた。
十三か十四歳くらい。
丸まった獣耳が、ぺたりと頭に伏せている。
膝を抱えて、檻の隅に座っていた。
泣いていなかった。
諦めた目をしていた。
そちらの方が、ずっと重かった。
近くで商人が数人、値段の話をしていた。
「競売は午後三時からだな」
「この子はいくらで出す?」
「体格を考えれば、まあそのくらいか」
普通の商談だった。
誰にとっても。
恒一は商人に声をかけた。
「その子を売るのをやめてくれないか」
商人が面倒そうに振り返った。
「旅人か。口を出すなら買ってくれ」
「いくらだ」
「競売前だから今は売れない。午後の競売に参加するか、諦めろ」
恒一は財布を取り出した。
「今すぐ買うならいくらだ」
「……金貨三十枚だ」
今の手持ちでは届かない。
エルシアに目を向けた。
エルシアは首を小さく横に振った。
合わせても足りない。
「シュラ……」
「ワシは金を持たん主義じゃ」
「主義があったのか」
「面倒じゃから持たんというだけじゃが」
商人は笑った。
「払えないなら退いてくれ。仕事の邪魔だ」
恒一はその場から動かなかった。
少女が、こちらをちらりと見た。
目が合った。
すぐに視線を落とした。
期待しない目だった。
助けを期待することをやめた目だった。
◇ ◇ ◇
「……コウイチさん、行きましょう」
エルシアが小声で言った。
「ここでは、どうにもならないことがあります」
「わかってる」
わかっていた。
でも。
頭の奥で、考えが浮かんでいた。
制度を変えるのは大きすぎる。
金は足りない。
力ずくは後が面倒だ。
でも。
あの商人一人の認識を変えるなら。
幼い子供を商品として扱うことへの、ほんの少しの嫌悪感。
それだけを、書き加えるだけなら。
恒一は少し立ち止まった。
それはさすがに、と思う気持ちがあった。
人間の認識を書き換えるのは、制度や習慣を変えるのとは違う。
相手の中身に手を入れることだ。
それをしていいのか。
少女を見た。
諦めた目を見た。
泣くことすらやめた顔を見た。
恒一は路地の方へ歩いた。
「少し待っていてくれ」
◇ ◇ ◇
人目につかない場所でノートを開いた。
ペンを持った。
少し止まった。
書いた。
『この奴隷商は、幼い子供を商品として扱うことに強い嫌悪感を覚えている』
書き終えた。
何かが少し変わった気がした。
ノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
戻った時。
変化は静かに起きていた。
商人が少女の檻の前で立ち止まっていた。
眉をひそめていた。
「……なんでこんな歳の子を競売に出そうとしてたんだ、俺」
独り言だった。
周囲の商人仲間が言った。
「どうした」
「いや……なんか、気分が悪い。子供はやめとこうと思って」
「まあ、後味悪いしな」
「そういう気分の時もある」
誰も不思議に思っていなかった。
そういうこともある、という空気だった。
商人は少女の檻に鍵を差し込んだ。
「今日はもういい。出てけ」
少女が顔を上げた。
意味がわからない、という顔だった。
「出ていっていいのか」
「ああ。今日はそういう気分じゃない」
少女は立ち上がった。
ゆっくりと、檻の外に出た。
そこで立ち止まった。
恒一を見た。
何かを感じ取ったのかもしれない。
何もわからなかったかもしれない。
少女の目に、水が溜まった。
「……ありがとう」
細い声だった。
誰に言ったのか。
よくわからない言葉だった。
でも。
恒一に届いた。
◇ ◇ ◇
「よかったですね」
エルシアが言った。
「ああ」
「ちょっと不思議でしたけど、あの商人さん、急に気が変わったみたいで」
「そうだな」
「気分の良い話じゃないけど……こういう結果になることもあるんですね」
エルシアは素直に続けた。
「でも、この街にはまだ同じような子がいます」
「わかってる」
「コウイチさん、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
恒一は答えた。
本当に大丈夫だった。
やっぱり、助けられるなら使うべきだ。
そう思っていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
宿の部屋。
恒一はノートを開いた。
今日書いた内容を見た。
食料。
契約。
価値観。
三日で、三つ変えた。
制度を変えた日もあった。
今日は、人間を変えた。
少し、躊躇いがあった。
でも。
少女は助かった。
誰も傷ついていない。
商人は今日も普通に仕事をしているだろう。
ただ、子供を売ることに少し嫌悪感が増しただけで。
それで、一人が助かった。
なら。
問題はない。
恒一はノートのページをめくった。
エルシアの言葉が頭に残っていた。
この街には、まだ同じような子がいます。
まだいる。
制度を変えるのは大きすぎる。
でも。
人を一人ずつ変えていけば。
少しずつ変わっていく。
制度より、人を変える方が早いのかもしれない。
その考えが、頭の中で静かに根を張った。
恒一はノートを閉じた。
窓の外の夜空を見た。
今日助けた少女が、今夜どこにいるかは知らない。
でも、今夜は檻の外にいる。
それだけで十分だ。
そう思いながら。
恒一の中で、何かの歯止めが、また一つ、静かに外れた。
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