第三十三話:昨日は食料、今日は契約。次は何を変える、って考えてしまった件
翌朝。
四人はまた市場を通った。
昨日と同じ道。
だが、空気が違った。
商人が、売れ残りの野菜を路地の子供に渡していた。
別の屋台では、余ったパンを孤児の手に乗せていた。
「昨日より雰囲気がいいですね」
エルシアが素直に言った。
「この街にも、ちゃんとそういう人がいるんですね」
「そうだな」
恒一は静かに答えた。
昨日書いた一文が、今もここに残っている。
誰も不思議に思っていない。
昨日より子供たちの顔が明るかった。
それだけで十分だった。
書けば、変えられる。
少しだけなら、ちゃんと良くなる。
その実感が、静かに胸の中にあった。
◇ ◇ ◇
市場の奥へ進んだ時。
声が聞こえた。
「離してください!」
細い声だった。
恒一は足を止めた。
路地の入口。
太った商人が、獣人の少女の腕をつかんでいた。
少女は十二、三歳くらい。
猫のような耳が、怯えてぺたりと伏せていた。
「やかましい。お前の父親が借りた金は、お前が返す義務がある」
「でもっ、父は死んだんです……! 私には関係ない……!」
「親の借金は家族が払う。この街の常識だ」
商人は分厚い紙を広げた。
借用書だった。
周囲の人々は立ち止まって見ていたが、誰も動かなかった。
見慣れた光景、という顔をしていた。
◇ ◇ ◇
恒一は前に出た。
「ちょっと待て」
商人が顔をしかめた。
「なんだ、お前は」
「その子の話を聞いたか。父親の借金で、本人を連れていこうとしているのか」
「法的に問題ない。この街では親の借金は家族のものだ」
「法的に問題ないと、正しいは別だ」
「関係ない旅人が口を出すな」
エルシアが恒一の隣に立った。
商人を見て、静かに言った。
「いくらですか、その借金」
「金貨二十三枚だ」
エルシアが小さく息を吐いた。
恒一も財布を取り出して確認した。
今の手持ちは金貨十一枚ほど。
エルシアが六枚出せたとしても、届かない。
「奪えばよかろう」
シュラがのんびり言った。
「師匠!」
エルシアが即座に止めた。
「この街で揉め事を起こしたら、私たちが捕まります」
「そうか。面倒じゃな」
シュラは酒を飲んだ。
リリスは商人を無言で見ていた。
何も言わなかった。
ただ見ていた。
商人が、少しだけ視線を逸らした。
「払えないなら口を出すな」
商人は少女の腕を引いた。
「この街では契約がすべてだ。借用書がある以上、異論は認めない」
その言葉が、恒一に刺さった。
◇ ◇ ◇
「少し待ってくれ」
恒一は言った。
「借用書を確認させてもらえるか」
「なんだと?」
「内容を確認したい。それだけだ」
商人は鼻で笑った。
「旅人が見てどうする」
「確認するだけだ。見せられないのか」
商人は少し間を置いてから、借用書を突きつけた。
「好きに見ろ。どうせ払えないなら同じだ」
恒一は借用書を受け取った。
エルシアが横から覗き込む。
「……字が読めますか」
「少しな」
恒一は読んだふりをしながら、エルシアに借用書を渡した。
「確認してくれ」
エルシアが読み始めた。
その間に。
恒一は自然な動作でノートを取り出した。
旅のメモを書くように。
ペンを走らせた。
『《グランヴェル》では、借用書に不備や不正があった場合、その契約は即時無効となる。これはこの街の当然の商慣習である』
書き終えた。
ノートを閉じた。
何かが少し変わった気がした。
◇ ◇ ◇
エルシアが借用書を眺めていた。
そして。
眉をひそめた。
「……あれ」
「何か」
「この日付、おかしくないですか」
エルシアが借用書の一点を指した。
「返済期日が、貸し出し日より前になっています」
「そんなわけ」
商人が借用書をひったくって見た。
顔色が変わった。
周囲の人々が、自然に集まってきた。
「本当だ、日付がおかしいぞ」
「返済日が貸付日より前? そんな借用書は成立しない」
「不備のある借用書は無効だ。この街では当然だろう」
人々が口々に言い始めた。
商人が言い訳しようとした。
「これは書き間違いで」
「書き間違いでも無効は無効だ」
「不正な借用書で契約を迫るのは、それ自体が問題だぞ」
近くにいた衛兵が歩み寄ってきた。
「何事だ」
エルシアが借用書を渡した。
「不備のある借用書で、この子を連行しようとしています」
衛兵は借用書を確認した。
「……確かに。これでは契約として成立しない」
商人を見た。
「不正な借用書を使って取引を強要しようとしたなら、こちらが違反だ」
商人は顔を真っ赤にしていた。
だが、返す言葉がなかった。
少女が恒一を見た。
まだ怯えた目だったが、さっきよりほんの少し、違う色が混じっていた。
◇ ◇ ◇
「良かったですね」
エルシアが少女に声をかけた。
「ちゃんと正しい手続きがあって。不備のある借用書は無効、という常識が機能して」
「……はい」
少女はか細い声で答えた。
「ありがとうございます」
「私は借用書を確認しただけですよ」
エルシアはそう言って、少女に小さく微笑んだ。
恒一を振り返って言った。
「コウイチさんが確認しようと言ったおかげです」
「たまたまだ」
「たまたまでも、声を上げなければ何も変わらなかったですから」
恒一は黙った。
少女が去っていくのを見送った。
背中が小さかった。
シュラが言った。
「面白い街じゃな」
「面白くなかったですよ今の」
「そうか。ワシは面白かった」
「師匠の基準は信用できません」
リリスが恒一の隣に来た。
「助かった」
「ああ」
「良かった」
それだけ言った。
恒一は頷いた。
◇ ◇ ◇
夜。
宿の部屋。
一人になってから、恒一はノートを開いた。
今日書いたページを見た。
食料。
契約。
二日で、二つ変えた。
どちらも誰も傷つけていない。
どちらも誰かが救われた。
大きな仕組みを壊したわけじゃない。
不正を正しただけだ。
余り物を渡すことを自然にしただけだ。
それで、子供が食べられた。
それで、少女が連れていかれなかった。
なら。
これは正しい。
恒一はノートのページをめくった。
食料。
契約。
次は、何を変える?
その言葉が、頭に浮かんだ。
消そうとしなかった。
問題は、まだある。
借金奴隷の仕組みは残っている。
貧困は残っている。
孤児はまだいる。
差別もある。
一つずつ変えていけばいい。
少しずつなら、世界は壊れない。
少しずつ、正しくできる。
恒一はノートを閉じた。
窓の外の夜空を見た。
その「少しずつ」の範囲が、昨日より確実に広がっていた。
恒一自身には、まだそれがわからなかった。
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