第三十二話:少しずつなら、世界は壊れない件
翌朝。
四人は《グランヴェル》の市場へ出た。
昨日の夜より、人が多い。
屋台が並んでいる。
様々な声が飛び交っている。
活気があった。
ただ。
よく見ると。
市場の端に、薄汚れた子供たちが固まっていた。
三人か、四人。
何かを待っているように、じっと商人たちを見ていた。
「昨日もいたな」
恒一が呟く。
「孤児です」
エルシアが静かに言った。
「この街には多いんですよ。商人が捨てた食べ物を拾うために、市場の周りに集まってきます」
「拾う?」
「売れ残りや傷んだものは捨てられますから。それを待っているんです」
恒一は子供たちを見た。
腹が空いているのが、遠目でもわかった。
◇ ◇ ◇
市場を歩いていると。
路地の曲がり角で、見覚えのある顔を見つけた。
昨日パンを盗んで走った、獣人の子供だった。
今日は一人じゃなかった。
三人の小さな子供たちを連れていた。
全員、恒一より小さかった。
獣人の子供は恒一に気づいた。
一瞬、逃げようとした。
恒一は動かなかった。
「逃げなくていい」
静かに言った。
子供は止まった。
警戒した目で見ている。
「昨日のパン、弟か妹に食べさせたのか」
子供はしばらく黙っていたが。
やがて、小さく頷いた。
「……みんな、腹減ってたから」
後ろの子供たちが、恒一を見上げていた。
小さい。
本当に小さかった。
◇ ◇ ◇
恒一はポケットから銀貨をいくつか取り出した。
子供たちに渡そうとして、止まった。
エルシアが横に立っていた。
「渡してもいいんですが」
静かな声だった。
「この街では、施しだけでは足りません」
「どういう意味だ」
「今日は食べられる。でも明日はまた同じです。構造が変わらない限り、この子たちは毎日同じことを繰り返します」
恒一は黙った。
「コウイチさんが悪いわけじゃないんですけど」
エルシアは少し困ったような顔をした。
「根本的に変えるには、街の仕組みを変えないといけない。一人の旅人にできることじゃないんです」
「……そうだな」
恒一は手の中の銀貨を見た。
渡した。
今日は、それだけだ。
子供は受け取った。
また走って消えた。
後ろの小さな子たちを連れて。
◇ ◇ ◇
市場の中を歩きながら。
恒一はずっと考えていた。
構造が変わらない限り。
エルシアはそう言った。
街の仕組みを変えないといけない。
一人の旅人にはできない。
そうだろうか。
恒一はコートの内ポケットを意識した。
黒いノート。
いつもそこにある。
都市全体を変えるのは、怖い。
何が起こるかわからない。
でも。
全部変えなくていい。
少しだけ。
本当に少しだけ。
誰も傷つけない、小さなことだけ。
◇ ◇ ◇
シュラが屋台の肉を眺めていた。
「師匠、買うんですか」
「見ておるだけじゃ」
「絶対買いますよね」
「さあ」
エルシアとシュラがやり取りをしている隙に。
恒一は少し離れた場所で、静かにノートを開いた。
旅のメモを書いているように見える。
いつも通りの動作だった。
恒一はペンを走らせた。
『《グランヴェル》の商人たちは、売れ残りや傷んだ食料を孤児や貧しい者に渡すことを、自然な善行として認識している。捨てるよりましだと、誰も不思議には思わない』
書き終えた。
何かが少し変わった気がした。
ノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
それから。
十分も経たないうちに。
市場の空気が、少しだけ変わった。
屋台の果物売りが、売れ残りのリンゴを路地の子供たちに差し出した。
「持ってきな。どうせ明日は腐る」
子供たちが受け取った。
隣の干し肉の商人も、切れ端を放ってやった。
「食えるぞ」
誰も不思議に思っていなかった。
周りの人間も「まあ、余り物だしな」という顔をしているだけだった。
最初からそういうものだったかのように。
自然に、溶け込んでいた。
◇ ◇ ◇
「この街にも、いい人はいるんですね」
エルシアが少し嬉しそうに言った。
「市場を通るたびに、ああいう光景は見たことなかったんですが」
「そうか」
「なんか、今日は雰囲気が違う気がします」
「そうかもな」
恒一は静かに答えた。
リリスが市場の端を見ていた。
孤児たちがパンを頬張っている。
リンゴを抱えている。
リリスはしばらくその様子を見ていた。
「食べてる」
ぽつりと言った。
「ああ」
「よかった」
それだけだった。
シュラは干し肉の屋台で交渉していた。
値切っていた。
「まけてくれ」
「まけません」
「少しくらいよいじゃろ」
「よくないです」
いつも通りだった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
四人は宿の近くの食堂で昼食を取った。
恒一は窓から市場を眺めていた。
さっきの光景が、まだ続いている。
商人が余り物を子供に渡している。
子供が受け取っている。
誰も不思議に思っていない。
誰も傷ついていない。
誰かが救われた。
それだけだった。
「コウイチさん、何を見てるんですか」
エルシアが聞いた。
「なんとなくな」
「市場ですか」
「ああ」
エルシアも窓の外を見た。
「さっきより、なんか穏やかな感じがしますね」
「そうか」
「気のせいかもしれないですけど」
恒一は黙って頷いた。
気のせいじゃない。
でも、そう言えなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
宿の部屋。
一人になってから、恒一はノートを開いた。
今日書いた一文を、もう一度見た。
大きな改変じゃなかった。
都市全体の構造を変えたわけじゃない。
奴隷制度がなくなったわけじゃない。
貧困が消えたわけじゃない。
ただ。
商人が余り物を渡すようになった。
それだけだ。
だが。
それで、子供たちは今日食べることができた。
誰も傷ついていない。
誰かが救われた。
なら。
これは正しかったんじゃないか。
恒一はノートを閉じた。
大きく変えなくていい。
少しずつでいい。
少しずつなら、世界は壊れない。
少しずつ、正しくしていけばいい。
その考えが、静かに胸に落ちた。
落ちた瞬間。
少しだけ、高揚した。
恒一自身は、その高揚が何を意味するのか、まだわかっていなかった。
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