第三十話:使わなくても守れた。それでも夜、ノートを開いていた件
旅が再開した翌日の朝。
野営地の焚き火の前で、四人は朝食を食べていた。
シュラが仕留めてきた鳥肉を、エルシアが焼いていた。
「師匠、本当に毎回どこで仕留めてくるんですか」
「そこらにおったぞ」
「そこら、って……」
「うまそうだったので」
「判断基準がそれなんですね」
リリスが焼き上がりを真剣な目で見ていた。
「まだ?」
「もう少しです」
「まだ?」
「まだです」
「まだ?」
「リリスちゃん、ちょっと待ってください」
エルシアが苦笑しながら、串を返す。
恒一はその様子を見ながら、湯気の立つ水筒を持った。
二週間前には、こんな空気じゃなかった。
シュラとエルシアは師弟で、リリスは恒一にべったりで。
恒一自身は、完全によそ者だった。
それが今は。
こんな朝が、当たり前になっていた。
「コウイチさん、昨日より顔色いいですよ」
エルシアが言った。
「修行が終わったからか」
「それもあると思いますけど、なんか雰囲気が変わりました」
「そうか?」
「前より、ちょっと落ち着いた感じがします」
シュラがくつくつと笑った。
「諦めを覚えたのじゃろ」
「師匠にだけは言われたくないな」
恒一が言うと、エルシアが少し目を丸くした。
「コウイチさん、師匠に言い返せるようになりましたね」
「言い返してもいいのか」
「いいですよ。私はずっとやってます」
「効いてないけどな」
「そこが問題なんですよ!」
シュラはのんびりと酒を飲んでいた。
全然堪えていなかった。
リリスがようやく焼き鳥を受け取り、真剣な顔で一口食べた。
「……おいしい」
「よかったです」
「エルシア、上手」
「ありがとうございます」
エルシアが少し嬉しそうに笑う。
恒一は空を見た。
晴れていた。
今日も歩ける。
◇ ◇ ◇
歩きながら、エルシアが恒一の横に並んだ。
「コウイチさん、魔力感知、旅の間も続けてください」
「修行は終わったんじゃないのか」
「歩きながらでもできますから。目を閉じなくていいので、常に周囲を感じるようにするんです」
「難しいな」
「最初はそうです。でも、慣れると無意識にできるようになります」
恒一は試した。
歩きながら、周囲を感じようとする。
左の森。
右の草原。
前方の街道。
「……なんか、前より空気が濃い感じがする」
「それです」
エルシアが頷いた。
「その感覚を、ずっと持ち続けるんです」
「疲れないのか」
「慣れれば疲れないですよ。師匠なんか、寝てても感知してますから」
「どういう睡眠だよ」
「師匠ですから」
シュラが後ろから言った。
「お主ら、ワシの話をしておるか」
「してません」
二人同時に答えた。
シュラはくつくつ笑った。
リリスが恒一の隣にふわりと浮いてきた。
「お父様、感知した?」
「少しだけ」
「リリスは全部感じてる」
「どのくらいの範囲?」
「この森全体」
「やっぱり規格外だな……」
「普通」
「普通じゃないんだよそれは」
リリスはきょとんとした顔をした。
恒一は苦笑する。
この子のスケール感は、永遠に理解できない気がする。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
木陰で休憩していた時。
シュラが唐突に言った。
「エルシア」
「はい?」
「恒一の剣、見てやれ」
「え、今からですか?」
「休憩中ちょうどよかろう」
エルシアは少し困ったような顔をしてから、恒一を見た。
「やりますか?」
「師匠が言うなら」
木剣を取り出す。
向かい合う。
エルシアが構える。
「来てください」
恒一は踏み込んだ。
弾かれた。
「今の踏み込み、少し重心が後ろです。もう少し前に乗せて」
もう一度。
今度は前に重心を置いた。
さっきより、深く入れた。
「良くなりました」
エルシアは頷く。
「旅の間も、続けましょう。毎日じゃなくていいので、思い出した時に」
「わかった」
そのやり取りを、シュラがぼんやりと見ていた。
酒瓶を揺らしながら。
「まあ、悪くないのう」
独り言みたいに呟いた。
誰に言うでもなかった。
でも。
恒一には聞こえていた。
◇ ◇ ◇
三日後。
街道脇の村に差し掛かった時。
前方から人が走ってきた。
「助けてください!」
中年の男だった。
荷馬車を引いていたらしく、後ろに荷物が散乱していた。
「どうしました」
エルシアが前に出る。
「森から魔物が! 荷馬車を壊されて、妻が荷台に挟まれて……!」
恒一はすでに走り出していた。
考えるより先に足が動いていた。
男が示した方向へ。
森の縁。
荷馬車が横倒しになっていた。
その下に、女性が足を挟まれていた。
そして。
中型の魔物が三匹、周囲をうろついていた。
「っ」
恒一は短剣を抜いた。
一匹が向かってくる。
横へ跳んで避ける。
二匹目が来る。
今度は前に踏み込んで、首元に一撃入れる。
怯む。
三匹目が来る。
リリスが黒い壁を作った。
三匹目が弾かれた。
一匹目が戻ってくる前に、恒一は荷馬車に駆け寄った。
「支えを持ってください!」
男が追いついてくる。
二人で荷台を持ち上げる。
女性が這い出す。
エルシアが残った魔物を片付けた。
数秒で終わった。
「大丈夫ですか」
恒一が女性に声をかける。
足首を押さえていたが、骨は折れていないようだった。
「……ありがとうございます」
女性が息を切らしながら言った。
「本当に、ありがとうございます」
男も頭を下げた。
「怪我は軽そうだな。ちゃんと医者に診てもらった方がいい」
「はい、すぐに」
四人は村まで二人を送り届けた。
◇ ◇ ◇
「今の判断、良かったですよ」
村を出た後、エルシアが言った。
「走り出すの、私より早かったです」
「そうか」
「ちゃんと戦えてましたよ。もう"守られる側"だけじゃないですね」
その言葉が、胸に広がった。
守られる側だけじゃない。
修行前の自分は、完全に足を引っ張っていた。
何もできなかった。
でも今日は動けた。
女性を助けられた。
それが、本当に嬉しかった。
だから思った。
もっと役に立たないといけない。
もっと強くないといけない。
そのためなら、ノートを使う理由がある。
◇ ◇ ◇
その夜のノート。
焚き火の前。
自然に開いた。
『佐藤恒一は、危険察知能力が少し高い』
『佐藤恒一は、実戦経験を効率よく吸収できる』
二文書いた。
何かが少し変わった気がした。
「またか」
ぼんやりと思った。
戻るのを待った。
閉じた。
眠った。
◇ ◇ ◇
さらに数日後。
帝国への道の途中。
小さな峠を越えようとしていた。
その時。
「……多い」
恒一が足を止めた。
「何ですか?」
「前に、かなりの数がいる」
恒一は目を細めた。
魔力感知。
先に気配がある。
十。
いや、もっと多い。
「エルシア、二十以上いる気がする」
「それは……」
エルシアも感知しようとした。
「……本当ですね。大型の群れです」
「上位魔物か?」
「上位ではないですが、数が多い。この規模なら、ちょっとした集落が襲われたら被害が出ます」
「この先に集落はあるのか」
「峠の向こうに小さな村があります」
四人は顔を見合わせた。
「行きますか」
エルシアが言った。
「向こうに人がいる」
「まあ」
シュラが酒瓶を揺らした。
「面白そうじゃし」
「師匠の理由はそれですか……」
全員、峠の方へ動き出した。
◇ ◇ ◇
村に着いた時、すでに群れは村の外縁に差し掛かっていた。
村人が数人、柵の内側で固まっていた。
魔物は二十匹を超えていた。
中型の狼型魔物。
一匹一匹は弱くない。
二十匹以上が一度に来る。
「エルシア、左を頼む」
「わかりました」
「師匠は……」
「好きにやる」
シュラが歩き出した。
その一歩で、周囲の魔物が一瞬怯んだ。
さすがだった。
恒一は正面の群れへ向かった。
短剣を抜く。
一匹が来る。
避ける。
一撃入れる。
次が来る。
また避ける。
修行の成果が出ていた。
身体が動く。
魔物の動きが読める。
一匹ずつなら対処できる。
でも。
同時に三匹が来た時に、恒一の動きが一瞬止まった。
判断が一秒遅れた。
右腕を爪が掠める。
「っ」
痛い。
血が出た。
そして。
その瞬間。
視界の端で、一人の村の子供が見えた。
柵の外に出ていた。
転んで、動けなかった。
その方向に。
四匹が向かっていた。
「……っ!」
恒一は走った。
距離がある。
普通に走ったら、間に合わない。
エルシアは左を対処している。
シュラは反対側にいる。
リリスが動いた。
だが、結界を広げる前に、最初の一匹が子供に届く。
あと二秒。
一秒。
間に合わない。
恒一の手が、コートの内ポケットへ動きかけた。
ノートだ。
書けば、間に合う。
だが。
次の瞬間、気づいた。
書く時間がない。
ペンを取って、文字を書いて、それが反映されるまでの間に、魔物は子供に届く。
ノートは間に合わない。
自分の脚しか、ない。
「……っ!」
恒一は全力で走った。
間に合え。
間に合えっ。
脚が燃えるように熱い。
背中の傷から血が滲む。
それでも足が止まらなかった。
二週間、走り続けた。
崖を登り続けた。
ぼろぼろになりながら積み重ねてきた。
その全部が、今この瞬間に出た。
魔物の爪が振り下ろされる寸前。
横から飛び込んで、子供を抱えて転がった。
魔物の爪が、恒一の背中を掠めた。
深かった。
痛かった。
でも。
子供は無事だった。
「……っ、大丈夫か」
恒一が子供に声をかける。
子供は泣いていたが、怪我はなかった。
◇ ◇ ◇
戦闘が終わった後。
エルシアが恒一の背中を見て顔色を変えた。
「深いです。すぐ手当てします」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません」
エルシアは素早く処置した。
シュラが横で酒を飲んでいた。
「まあ、生きてるからよいじゃろ」
「師匠のそれ、基準が低すぎます」
処置が終わった後。
エルシアが恒一を見た。
「……間に合いましたね」
「ああ」
「私も走り出そうとしたんですが、その前にコウイチさんが動いてて」
「俺も間に合わないと思ってた」
「でも動けたじゃないですか」
エルシアは少し嬉しそうに笑った。
「修行の成果ですよ、絶対に」
「……そうかもな」
恒一は素直に頷いた。
本当にそう思った。
ノートに手が伸びた。
でも間に合わないとわかった。
だから走った。
走れた。
二週間の積み重ねが、あの一瞬に出た。
それは、本当のことだった。
◇ ◇ ◇
村人が食事を出してくれた。
子供の親が何度も頭を下げた。
リリスは食事に夢中だった。
「甘い」
「それ、この村の名物らしい」
「おいしい」
シュラは酒を飲んでいた。
エルシアは疲れた顔で椀を持っていた。
いつも通りの景色だった。
恒一は自分の手を見た。
ノートを開かなかった手。
子供を抱えて転がった手。
震えていなかった。
間に合った。
ノートなしで、間に合った。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
その夜。
全員が眠った後。
恒一は焚き火を見ていた。
背中の傷が、少し疼いた。
「……間に合った」
静かに思った。
ノートを使わずに、間に合った。
修行は無駄じゃなかった。
積み重ねた分が、ちゃんと出た。
エルシアが言っていた通りだった。
積み重ねたものは、裏切らない。
その言葉が、今夜は少しだけ重く感じた。
でも。
次は?
次も、同じように間に合えるとは限らない。
あと少し距離があったら。
あと少し魔物が速かったら。
今日は間に合った。
でも、いつも間に合うとは限らない。
ノートがあれば、確実に間に合える。
その考えが、頭に浮かんだ。
消そうとしなかった。
消せないとわかっていたからだ。
恒一はノートを開いた。
今日の傷の回復のために、一文書いた。
何かが少し変わった気がした。
閉じた。
眠った。
使わなくても守れた日に。
それでもノートを開いた。
その事実を。
恒一は、もう気にしていなかった。
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