第二十九話:積み重ねてきたのは、努力だけじゃなかった件
十一日目。
恒一は走りながら、自分の呼吸を聞いていた。
乱れていない。
一週間前とは、全然違う。
エルシアが横に並んでいた。
「今日は少しペース上げますか?」
「試してみる」
恒一はペースを上げた。
ついていけた。
「……速いですね」
エルシアが少し驚いた顔をした。
「才能ですかね」
「そうかもしれない」
答えながら、思った。
ノートのおかげだ。
才能ではない。
でも今は、そう返すしかなかった。
そして、そう返すことに、もう抵抗がなかった。
◇ ◇ ◇
十一日目の夜。
三人が眠った後、恒一はノートを開いた。
迷いは、なかった。
使うとわかっていて、開いた。
今日の収穫を確認する。
走り込み、良かった。
崖、ノーミス。
木剣、五百回まで振れた。
模擬戦、防御が少し形になってきた。
全部、本物の成果だ。
ノートの補助もあった成果だ。
両方、本当のことだ。
もっと集中できれば、もっと早く覚えられる。
それだけのことだ。
努力をやめるわけじゃない。
ペンを取った。
『佐藤恒一は、集中状態へ入りやすい』
書いた。
何かが少し変わった気がした。
また戻った気がした。
「またか」
小さく呟いた。
ノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
十二日目。
魔力感知の訓練中に、初めてエルシアの魔力の「形」が見えた。
温かい光の塊、という感覚だった。
昨日より解像度が上がっていた。
「コウイチさん、今の感知、昨日より深いですよ」
「そうか?」
「どこまで感じましたか?」
「お前の形みたいなのが見えた。温かい光の感じで」
エルシアが目を丸くした。
「形まで見えたんですか?」
「なんとなくだけど」
「それ、私が師匠に師事して三年目くらいにできるようになったことです」
「才能か体質だろ」
「どちらにしても……本当にすごいですよ」
エルシアは純粋に感心していた。
何の疑念もない。
恒一はそれを聞きながら、心の中で小さく思った。
……全部努力だけじゃない。
でも次の瞬間には、上書きした。
でも努力したのは本当だ。
修行してるのは自分だ。
ノートは補助だ。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
十二日目の夜。
ノートを開く。
自然な動作だった。
歯を磨くくらい自然だった。
今日感じたことを思い出す。
魔力感知で形が見えた。
もっと深く感じられれば、もっと早く理解できる。
努力する気はある。
ただ、その努力がちゃんと実れば、それでいい。
『佐藤恒一は、魔力感知への理解が深まりやすい』
書いた。
何かが少し変わった気がした。
今日は少し大きい気がした。
数秒後、戻った気がした。
恒一はノートを閉じた。
眠った。
◇ ◇ ◇
十三日目。
シュラが言った。
「今日は実戦形式じゃ」
「実戦?」
「魔物の縄張りに踏み込む。逃げるも戦うも、お主が決めろ」
「聞いてないんだが」
「今言った」
エルシアが苦笑した。
「師匠……」
「経験じゃ」
恒一は深く息を吐いた。
走り込みや崖登りとは違う。
本物の魔物が来る。
リリスが恒一の隣に浮いてきた。
「リリスも行く」
「危ないぞ」
「危なくない」
リリスは真顔だった。
「お父様が危なくても、リリスが守る」
「それは頼もしいが心強くない」
エルシアが小声で言う。
「師匠の実戦形式修行、私も経験があります」
「どうだった」
「死にかけました」
「やっぱり怖い話だな」
だが。
動くしかない。
恒一は歩き出した。
◇ ◇ ◇
縄張りに踏み込んで数分後、魔物が来た。
中型の猪型魔物。
最初の走り込みの頃と同じくらいのサイズ。
だが、今の恒一は動けた。
横へ跳んで避けた。
次の突進も、タイミングを読んで躱した。
三回目の突進で、短剣で脚を一撃入れた。
魔物が怯む。
恒一はそのまま森の縁まで誘導し、縄張りの外へ出した。
「……できた」
「良かったですよ、今の」
エルシアが言った。
「動きが最初と全然違います」
「二週間の成果だ」
「本当にそうだと思います」
純粋な言葉だった。
その言葉の重さが、また少し痛かった。
本当に二週間の成果なのか。
ノートがなかったら、同じ動きができたのか。
でも。
俺が走った。
俺が登った。
俺が振った。
それは消えない。
恒一は、その考えを胸にしまった。
◇ ◇ ◇
十三日目の夜。
ノートを開く。
今日は実戦で動けた。
でも魔物の速度に対して、自分の反応速度が少し遅い。
努力で身につけた動きはある。
ただ、もう少し身体が反応しやすくなれば。
『佐藤恒一は、修行内容を効率よく身体へ反映できる』
書いた。
『佐藤恒一は、極度の緊張下でも身体が動きやすい』
もう一文書いた。
何かが変わった気がした。
今日は少し長かった気がした。
恒一は待った。
戻った気がした。
ノートを閉じた。
二文書いた。
前は一文ずつだった。
でも一文ずつ書いても世界は壊れなかった。
なら二文でも同じだ。
問題ない。
眠った。
◇ ◇ ◇
十四日目。
この日の模擬戦で、恒一は初めてエルシアを数秒追い詰めた。
完全に防がれた。
当然だ。
でも、防がれるまでの時間が、今までと全然違った。
「……本気で驚いてます」
エルシアが言った。
本当に驚いていた。
「二週間でここまで来る人を、私は見たことがないです」
「才能だろ」
「才能もありますけど」
エルシアは恒一を見た。
「ちゃんと努力した結果だと思います。コウイチさん、本当に頑張りましたね」
その言葉が、胸に落ちた。
重かった。
嬉しかった。
複雑だった。
全部努力だけじゃない。
でも、努力したのは本当だ。
努力したのは本当だ。
努力したのは、本当だ。
◇ ◇ ◇
「リリス、今日の模擬戦どうだった」
夕方、恒一が聞いた。
「エルシアを追い詰めてた」
「少しだけど」
「少しじゃない」
リリスは真顔だった。
「最初の頃と全然違う」
「そうか」
「ちゃんと強くなってる」
リリスは言った。
「毎日見てた。毎日変わってた」
「全部か」
「全部」
恒一はリリスの顔を見た。
嘘をつかない顔だった。
全部見ていた。
毎日。
転んだ回数も。
疲れた顔も。
ちょっとずつ動けるようになっていくのも。
全部。
その目が、少し痛かった。
◇ ◇ ◇
その夜。
シュラが珍しく、恒一の隣に座った。
酒瓶を持ちながら、焚き火を見ていた。
「成長したのう」
「そうか」
「身体の使い方を覚えた」
「まだまだだろ」
「まだまだじゃ。ただ、最初とは全然違う」
シュラは酒を飲んだ。
「才があるのか、努力したのか、どちらじゃと思う」
「両方だろ」
「そうかのう」
シュラは恒一を見た。
底の見えない瞳だった。
「まあ、よいか」
それだけ言って、立ち上がった。
「明日で修行は終わりじゃ」
「終わり?」
「旅に出る。後は実戦で覚えろ」
シュラはそのまま木にもたれて目を閉じた。
恒一は焚き火を見た。
「才があるのか、努力したのか、どちらじゃと思う」
その問いが、頭に残った。
両方だ、と答えた。
でも本当は、三つ目がある。
ノートだ。
才でも努力でもない、三つ目。
それをわかっていて、「両方だ」と言った。
その答えに、もう後ろめたさはなかった。
◇ ◇ ◇
深夜。
全員が眠った後。
恒一はノートを開いた。
何も考えなかった。
考える必要がなかった。
手が自然にページを開いた。
ペンを取った。
ここまで来た。
二週間で、ここまで来た。
でも。
これから帝国へ行く。
もっと強い相手がいる。
もっと危険なことがある。
リリスを守るには、もっと強くならないといけない。
ノートで急激に強くなるのは危険だ。
それはわかっている。
急に強くなれば、エルシアに気づかれる。
だから、少しずつだ。
今日も、少しだけ。
「努力の効率化」のための、補助だ。
『佐藤恒一は、痛みに少し慣れやすい』
『佐藤恒一は、危機状態での冷静さが少し増す』
今日は二文書いた。
何かが変わった気がした。
「……今日は少し大きかったな」
思った。
だが次の瞬間には、もう気にしなくなっていた。
ノートを閉じた。
コートにしまった。
眠った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「修行終わりじゃ」
シュラが言った。
「旅に出る」
「それだけか」
「最低限、旅にはついて来れる。後は実戦で覚えろ」
エルシアが、恒一を見た。
「本当に、頑張りましたよ」
「ありがとう」
「また模擬戦しましょう。帝国に行くまでの道でも、続けます」
「ああ」
リリスが近づいてきた。
「お父様、出発」
「そうだな」
「強くなった」
「少しな」
「ちゃんと強くなった」
リリスは真顔だった。
毎日見ていた子が、ちゃんと強くなったと言っている。
恒一は頷いた。
「ありがとう」
リリスは少しだけ嬉しそうにした。
◇ ◇ ◇
四人は歩き出した。
修行前より、恒一の足取りは全然違った。
疲れにくい。
身体が軽い。
周囲の気配を少し感じられる。
魔物の縄張りを、なんとなく察知できる。
これが、二週間の成果だ。
本物の成果だ。
努力した分だ。
ノートで補助した分も、あるかもしれない。
でも、努力したのは本物だ。
走ったのも登ったのも振ったのも、全部自分だ。
それは揺るがない。
恒一はそう思いながら、歩いた。
その後ろを、シュラが歩いていた。
酒瓶を揺らしながら。
ぼんやりと空を見ながら。
ただ一度だけ。
恒一の背中を見た。
何かを確かめるような目で。
何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
恒一は知っていた。
ノートを開くたびに揺れていた世界が、今朝で何回目だったか。
数えてはいなかった。
でも、増えていることはわかっていた。
最初に書いた時から、今日まで。
一回、一回、積み重ねてきた。
努力と同じように。
ノートの改変も。
静かに、積み重なっていた。
恒一はそれを、知っていた。
知っていて、続けた。
それだけのことだった。
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