第二十八話:毎日使っても問題ないと、気づいてしまった件
十日目の朝。
恒一は走りながら、エルシアの背中を見ていた。
近い。
最初の頃は、走り始めた瞬間から見えなくなっていた。
それが今は、同じ視界に入っている。
「……追いついてる?」
「かなり近いですよ」
エルシアが隣を確認した。
「本当に成長早いですね」
「慣れてきたんだろ」
「才能もあるんじゃないですか?」
エルシアは純粋に感心したように言った。
「回復力も高いですし、身体の覚えも早いですし」
「そういう体質なのかも」
「うらやましいですよ。私、最初は全然でしたから」
恒一は前を向いた。
ノートのおかげだ。
それはわかっていた。
でも今は、そう返すしかなかった。
◇ ◇ ◇
崖登りは、今日もノーミスだった。
川渡りは、ほぼ躊躇せずに渡れた。
木剣は、何百回振っても腕が落ちてこなかった。
「本当に才能ありますよ」
エルシアが言った。
「昨日あれだけ動いて、今日普通に立てるのは羨ましいです」
「元々回復は早い方だった」
「いいですね。私は翌日は死んでましたから」
「死んでたのか」
「比喩ですけど、ほぼそれに近い状態でした」
エルシアは苦笑した。
「コウイチさんの体質、修行向きだと思います」
「修行向きな体質ってあるのか」
「あると思いますよ。師匠は特に何も言わないですけど、ちゃんと見てると思います」
ちゃんと見てくれている。
それだけのことなのに。
地球にいた頃は、誰も自分のことなんて見ていなかった。
会社へ行き。
怒鳴られ。
帰って寝る。
そんな日々を繰り返しても、誰も恒一を見ていなかった。
それが当たり前だと思っていた。
でも今は。
師匠が見ている。
エルシアが見ている。
リリスが全部見ている。
なぜか、それが嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午後の模擬戦。
恒一は踏み込んだ。
エルシアが構える。
弾かれる寸前、恒一の木剣がエルシアの袖を掠めた。
「っ」
エルシアが小さく驚く。
「今、当たりましたよね」
「かすっただけだ」
「十日でここまで来るのは……やっぱり才能ですよ」
エルシアは嬉しそうに言った。
「私がここまで来たのは二年目の終わりでしたから」
「それは参考にならないな。お前の師匠が特殊すぎる」
「それはそうかもしれませんけど」
エルシアは笑った。
「でも、本当に努力が出てます。才能と努力が噛み合ってる感じです」
その言葉が、胸に広がった。
才能と努力が噛み合っている。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
だからこそ。
少しだけ、痛かった。
ノートを使っている。
それはわかっている。
でも、走ったのは自分だ。
その言い訳を、今日も使った。
使い慣れてきた言い訳だった。
◇ ◇ ◇
夕方。
恒一とエルシアは水汲みに行った。
川辺。
水筒に水を溜めながら、エルシアがぽつりと話し始めた。
「私、師匠から逃げたことがあるんです」
「そうか」
「修行が始まって半年くらいの時。もう無理だと思って、夜中に荷物をまとめて」
「逃げられたのか」
「一キロも行かなかったです」
「師匠に捕まったのか」
「捕まったというより……気づいたら師匠が前にいました」
エルシアは苦笑した。
「先回りするんですよ、あの人。どうやってかは今もわかりません」
「それは怖い」
「怖かったです。ものすごく」
川の音が続く。
「でも、師匠は何も言いませんでした。ただ、一緒に歩いて戻りました。それだけです」
「怒らなかったのか」
「怒らなかった。翌日からまた普通に修行でした」
「……それはそれで怖いな」
「そうなんですよ」
エルシアは笑った。
少し遠い目をしながら。
「でも、あの時逃げなくて良かったと思います。逃げ切れていたとして、その先に何があったかわからないし」
「今の自分がなかったな」
「そうです」
エルシアは水筒を手に取った。
「積み重ねたものって、裏切らないんですよ」
「そう思うか」
「思います。私が今動けるのは、あの時間があったからですから」
恒一は水面を見た。
川が流れている。
エルシアは積み重ねた。
十五年間。
逃げようとして、それでも積み重ねた。
だから今がある。
自分は。
十日だ。
ノートで補助しながら、十日だ。
罪悪感が、少しだけ動いた。
エルシアに言えない。
積み重ねたものは裏切らない、と言ってくれている。
でも自分の積み重ねには、ノートが混ざっている。
それは、エルシアの積み重ねと同じものなのか。
わからない。
でも。
走ったのは自分だ。
登ったのも自分だ。
振ったのも自分だ。
その事実を、何度でも使った。
使い慣れた言い訳で、罪悪感を埋めた。
「コウイチさん?」
「……何でもない。そうだな、積み重ねは裏切らない」
「はい」
エルシアは頷いた。
「コウイチさんも、ちゃんと積み重ねてます」
「そうか」
「本当に」
その言葉が、胸に広がった。
複雑な広がり方をした。
嬉しくて。
少しだけ、痛かった。
◇ ◇ ◇
「目を閉じろ」
シュラが言った。
「魔力感知か」
「うむ」
恒一は目を閉じた。
呼吸を整える。
自分の中の何かを感じようとする。
まず、自分の中から。
呼吸。
息が入る。
出る。
その奥に、何か。
今日は。
もう少し奥へ。
その時。
「……あ」
何かが、見えた気がした。
見えたというより、感じた。
川の方向に、揺れがある。
水が動いている。
それだけじゃない。
右側にエルシアがいる。
なんとなく、温かい光みたいな何かがある。
後ろにリリスがいる。
そちらは。
「……でかい」
思わず声が出た。
「何が見えた?」
シュラが聞く。
「リリスの方向に、すごく大きい何かがある」
「ほう」
シュラは少し笑った。
「わしの方は?」
恒一は、シュラの方向を感じようとした。
「…………底がない」
沈黙。
「ほう」
シュラはそれだけ言った。
「コウイチさん!」
エルシアが少し興奮した声を出した。
「感じましたよね?」
「川の方向と、お前の方向と、リリスの方向と、シュラの方向を、なんとなく」
「才能ありますよ、やっぱり」
エルシアは素直に言った。
「普通はもっと時間かかりますから。でも、コウイチさんならそうかもって気もします」
「そうか?」
「回復も早いですし、覚えも早いですし、体質が修行向きなんだと思います」
何の疑念もない、純粋な感心だった。
リリスが近づいてくる。
「お父様、感じた?」
「感じた」
「リリス、どう見えた?」
「大きかった」
「それだけ?」
「他のと全然違う大きさだった」
リリスはこくりと頷いた。
「そう」
「ちゃんと感じてる」
そう言った。
恒一は目を開けた。
努力が実った。
本当にそう思った。
でも。
頭の奥で、小さく。
ノート補正もかなり入っている。
その声が聞こえた。
恒一は、その声を静かに流した。
◇ ◇ ◇
「昨日より戦う顔になっとる」
夕方、シュラが言った。
「身体の動かし方を覚えてきたのう」
「そうか」
「まあ、才があるのかもしれんな」
シュラは酒を飲みながら、ぼんやりと空を見た。
◇ ◇ ◇
夜。
恒一はノートを開いた。
迷いはなかった。
今日も使うとわかっていた。
昨日もそうだった。
明日もそうなるだろう。
それがわかっていて、開いた。
焚き火の光の中で、ページを眺める。
今日の成果を確認する。
魔力感知ができた。
エルシアの服に当たった。
崖をノーミスで登った。
全部、本物の成果だ。
ノートがあったから出た成果でもある。
両方、本当のことだ。
恒一はペンを取った。
次は何を書くか、すでに決まっていた。
修行で得た力が、もっと定着しやすくなれば。
努力した分を、ちゃんと受け取れるようにするだけだ。
それは努力を消す改変じゃない。
その理屈も、使い慣れてきた。
書いた。
『佐藤恒一は、修行による身体能力の成長が少し定着しやすい』
書き終えた。
何かが少し変わった気がした。
最初の頃より、少し大きい気がした。
戻るまでの時間が、少し長かった気がした。
恒一は待った。
待つことにも、慣れてきた。
ノートを閉じた。
焚き火を見た。
エルシアに追いつく。
リリスを守れるようになる。
師匠に「マシじゃな」じゃなくて、もっと違う言葉を言ってもらう。
その未来のために、使っている。
その理由は本物だ。
だから使い続ける。
そして。
「……もっと早く使っておけば良かったかもしれない」
思った。
その考えに。
恐怖は、なかった。
恐怖がないことに、もう恐怖も感じなかった。
◇ ◇ ◇
焚き火の向こうで、シュラがぼんやりと空を見ていた。
才があるのう。
そう思った。
何百年も生きてきて、これほど伸びる人間はそうそうおらん。
まあ、面白い。
シュラは酒を飲みながら、静かに目を閉じた。
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