第二十七話:わかってる。でも、やめる理由が見つからない件
九日目の朝。
恒一は走りながら、違和感を覚えていた。
違和感というより。
驚きに近かった。
身体が、動く。
昨日より速い。
呼吸が、まだ続く。
脚が、まだ動く。
山道の折り返し地点を過ぎても、ペースが落ちなかった。
これが今までと違う。
最初の頃は、折り返し地点で限界だった。
昨日は折り返しの少し手前でペースが落ちた。
だが今日は。
「……なんか、動けるな」
思わず呟いた。
「そうですね」
隣を走っているエルシアが頷いた。
「昨日より明らかに動きが良いです」
「慣れてきたのかな」
「慣れもあると思いますけど……本当に成長が早いですよ」
エルシアは少し感心したように言った。
「最初の頃から考えると、全然違います」
「そうか?」
「努力してる成果ですよ」
その言葉が、じわりと胸に広がった。
努力の成果。
そうだ。
八日間、毎日走った。
登った。
渡った。
振った。
それが形になっている。
「……でも」
頭の奥で、小さな声がした。
これ、半分ノートのおかげなんだよな。
回復を早くした。
疲れにくくした。
それだけじゃない。
もっと前に書いた、あの一文も。
努力した分が飛躍的に伸びる。
成長速度そのものを、あの夜に書き換えていた。
だから今日の動きも、純粋な努力だけじゃない。
恒一はその考えを、走りながら処理した。
いや。
努力してるのは本当だ。
走ったのは自分だ。
崖を登ったのも自分だ。
木剣を振ったのも自分だ。
ノートで全部強くなったわけじゃない。
そうだ。
これは、自分の努力だ。
恒一は前を向いた。
呼吸を整えた。
走り続けた。
◇ ◇ ◇
崖登りも、今日は一回もすべらなかった。
頂上まで辿り着いた時、エルシアが少し驚いた顔をしていた。
「今日、一回も落ちませんでしたね」
「そうか」
「最初の頃は、崖を見ただけで顔色変わってましたよ」
「余計なことを言うな」
「褒めてます」
エルシアは笑った。
恒一も少し笑った。
一回も落ちなかった。
それだけのことが、思ったより嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午後の模擬戦。
恒一は木剣を握り、エルシアと向き合った。
毎日やっている。
毎日弾かれている。
でも今日は、少し違う気がした。
理由はわからない。
ただ、身体が昨日より軽い。
踏み込む。
弾かれる。
また踏み込む。
また弾かれる。
だが、今日は弾かれるまでの時間が、確実に長かった。
そして。
十回目の踏み込みで。
恒一の木剣がエルシアの木剣に、まともに接触した。
「っ」
エルシアが少し驚いた顔をした。
完全に防がれた。
恒一の方が弾かれた。
だが。
「今の、良かったです!」
エルシアが嬉しそうに言った。
本当に嬉しそうだった。
「ちゃんと重さがありました。受け流しじゃなくて、ちゃんと受け止めました」
「それって、いいのか?」
「受け止めるくらいの重さがあったってことです。最初の頃は受け流しもいらないくらいでしたから」
恒一は木剣を見た。
「……そうか」
「本当に成長してます」
エルシアはもう一度言った。
「努力が、ちゃんと出てます」
その言葉が、また胸に広がった。
でも今回は。
さっきより少し、複雑な広がり方をした。
努力が出ている。
そうだ。
でも。
少し、ノートのおかげでもある。
でも、努力してるのは本物だ。
でも、ノートがなかったら、ここまで回復できなかった。
でも、走ったのは自分だ。
でも。
でも。
「コウイチさん?」
「……何でもない。ありがとう」
恒一は木剣を構え直した。
もう一回。
踏み込む。
今度も弾かれた。
それでも、悪くなかった。
◇ ◇ ◇
「昨日よりマシじゃな」
夕方、シュラが言った。
それだけだった。
それだけなのに。
「……そうか」
恒一は思ったより嬉しかった。
この人に褒められることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
シュラは酒を飲みながら、ぼんやりと焚き火を見ていた。
「少しは戦う顔になってきた」
「戦う顔?」
「怯えてない」
シュラはそう言った。
「最初は、修行が怖くて動けない顔をしておった。今は違う」
「そうか」
「まあ、まだまだじゃが」
「それは否定しない」
シュラはくつくつと笑った。
その横で、リリスが恒一の隣に座った。
「お父様」
「ん?」
「昨日より速い」
真顔だった。
「見てたのか」
「全部」
「今日は転ばなかったぞ」
「ゼロ回」
「正確に数えてたのかよ」
「ちゃんと強くなってる」
リリスは真っ直ぐに言った。
その言葉が。
エルシアの「努力の成果」より、シュラの「戦う顔」より。
一番、重く刺さった。
この子が言うから、重い。
この子はずっと見ている。
全部見ている。
その子が「ちゃんと強くなってる」と言う。
だから重い。
だから。
もっと頑張らないといけない。
そう思った。
◇ ◇ ◇
夜。
三人が眠りについた後。
恒一はノートを取り出した。
葛藤は、なかった。
自然だった。
寝る前にコートを脱ぐくらい、自然だった。
焚き火の光の中で、ページを開く。
使うつもりで開いた。
それはわかっていた。
今日、確実に成長した。
エルシアに褒められた。
シュラに認められた。
リリスに見ていてもらえた。
そして、ノートで回復を早くしていた。
その両方が、今日という日を作った。
ノートを使ったことは、知っている。
でも。
走ったのは自分だ。
登ったのも自分だ。
振ったのも自分だ。
それは消えない。
だから。
ノートを使いながら努力することは、矛盾じゃない。
そう思うと、楽だった。
罪悪感の代わりに、合理的な説明が埋めてくれる。
恒一はペンを取った。
昨日より、迷いが少なかった。
昨日より、手が速く動いた。
少しだけ、怖かった。
でも。
書いた。
『佐藤恒一は、疲労への耐性が少し高い』
書き終えた。
何かが少し変わった気がした。
慣れた感覚だった。
すぐに戻った気がした。
恒一はノートを閉じた。
罪悪感は、ほとんどなかった。
あるとすれば。
「エルシアには言えないな」という程度のものだった。
でも言わなくていい。
言う必要はない。
昨日使った。
今日も使った。
明日も、たぶん使う。
それはわかっていた。
わかった上で。
恒一はノートをしまった。
目を閉じた。
やめる理由が、見つからなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
恒一が目を覚ますと、リリスがすでに起きていた。
焚き火の前で木の実を並べている。
「お父様、今日も修行」
「ああ」
「頑張れる?」
「たぶんな」
「うん」
リリスはこくりと頷いた。
「見てる」
「知ってる」
「全部」
「知ってる」
恒一は苦笑しながら立ち上がった。
身体が軽い。
今日も動ける。
今日も走れる。
今日もエルシアに認めてもらえるかもしれない。
師匠に「マシじゃな」と言ってもらえるかもしれない。
リリスに「昨日より速い」と言ってもらえるかもしれない。
それが、嬉しかった。
そのためなら、頑張れる。
ノートが、その後押しをしてくれる。
ノートを使っていることは、わかっている。
でも、やめる理由も見つからない。
だから使う。
それだけのことだ。
恒一は走り出した。
清々しい朝だった。
その清々しさの中に。
小さな、でも確かな歪みが混ざっていることを。
恒一は知っていた。
ただ、見ないようにしていた。
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