第二十六話:ちょっとだけ、ちょっとだけだから。
八日目の朝。
恒一は走りながら、七日間の積み重ねを感じていた。
最初は十分で限界だった山道が、今日は二十分走っても呼吸が続く。
崖も、最初の頃より手がすべらない。
少しずつ、確かに変わっている。
そう思っていた。
朝の走り込みを終えた時、シュラが言った。
「今日は量を増やす」
「……は?」
「走り込みをもう一周。崖も往復。模擬戦の後に魔力感知もやれ」
「全部一日でやるのか」
「うむ」
「今まで一個ずつだったじゃないか」
「慣れてきたじゃろ」
シュラは酒瓶を揺らした。
「慣れてきたなら、次の段階じゃ」
エルシアが苦い顔で小声で言う。
「……これ、私も経験しました」
「いつ?」
「修行の三週目くらいです。師匠がいきなり量を倍にしてきて」
「お前はどうした」
「泣きながらやりました」
「泣けるくらい元気あるな……」
「泣く元気しかなかったんです」
恒一はシュラを見た。
シュラはにやにやしていた。
楽しそうだった。
完全に楽しんでいる。
「……行くか」
恒一は走り出した。
◇ ◇ ◇
もう一周の走り込みは、最後の方で足が攣りかけた。
崖の往復は、下りで二回すべって膝を打った。
それでも、何とかこなした。
昼前。
「では模擬戦じゃ」
シュラが言った。
恒一は木剣を受け取り、エルシアと向かい合う。
「無理しなくていいですよ」
エルシアが言った。
その顔は、少し心配そうだった。
「限界なら言ってください」
「まだいける」
「その顔、全然いける顔じゃないですよ」
「気のせいだ」
恒一は踏み込んだ。
エルシアが受け流す。
また踏み込む。
また弾かれる。
だが。
「さっきより踏み込みが速かったです」
エルシアが静かに言った。
「本当か」
「はい。昨日より明らかに速い」
恒一はもう一度踏み込んだ。
また弾かれた。
だが。
弾かれるまでの時間が、少しだけ長くなった気がした。
「良くなってます」
エルシアは頷く。
「本当に、少しずつですが」
「少しずつか」
「それでいいんですよ」
恒一はそれを聞きながら、木剣を構え直した。
もう一度。
また踏み込む。
今度は弾かれる寸前、エルシアの木剣にわずかに触れた。
「お、今触れましたよ」
「当たってないけどな」
「でも触れました。違います」
エルシアは少し嬉しそうだった。
「最初の日から考えると、全然違います」
「そうか」
悪くない。
そう思った。
昨日より動けている。
走っても崖を登っても、まだ模擬戦ができている。
ただ。
身体がそろそろ限界に近かった。
◇ ◇ ◇
「では最後に魔力感知じゃ」
シュラが言った。
昼過ぎだった。
恒一は地面に座り、目を閉じた。
周囲の気配を感じようとする。
川の音。
風の音。
葉が揺れる音。
だが。
何も感じない。
感じようとするほど、何も感じない。
「……全然わからない」
「そうじゃろうな」
「何か感じるコツとかないのか」
「ない」
「あっさりすぎる」
「感じるまで続けるしかないんじゃ」
エルシアが隣に座った。
「私も最初は全くでした。でも、目を閉じた時に、自分の呼吸を先に感じてみてください」
「自分の呼吸?」
「自分の中にある気配から始める感じです。外は後でいいので」
恒一は試した。
呼吸。
息が入る。
出る。
入る。
出る。
何かが、わずかに。
「……あれ」
「気づきましたか?」
「わからないけど……何か違う気がした」
「それです」
エルシアは頷く。
「最初の気づきはそれくらいでいいんですよ」
恒一はもう一度目を閉じた。
呼吸。
自分の中の何か。
それを感じようとした。
感じられたかどうかはわからない。
ただ。
その瞬間。
ずん、と。
全身に重さが来た。
「……っ」
身体が傾く。
「コウイチさん!?」
エルシアが素早く支える。
「大丈夫ですか?」
「……ちょっと、くらっとした」
「無理です。今日はここまでです」
エルシアが静かに、でも断言するように言った。
「師匠」
「うむ」
「今日はここまでです」
「ふむ」
シュラはしばらく恒一を見た。
それから、小さく頷いた。
「まあ、よかろう」
珍しく、素直に引いた。
◇ ◇ ◇
恒一は川辺の草の上に横になっていた。
空が見える。
雲が流れている。
「お父様」
リリスが隣に座る。
「水」
「……ありがとう」
飲んだ。
ほんの少しだけ、楽になった。
「頑張ってた」
リリスが静かに言った。
「見てたのか」
「全部」
「そうか」
「ちゃんと、昨日より動けてた」
恒一は空を見たまま答えなかった。
動けていたのはわかる。
でも。
これが限界だ。
身体の底の方が、完全に空になった感覚がある。
エルシアが隣に腰を下ろした。
「無理させすぎましたね」
「いや、お前のせいじゃない」
「それでも」
「師匠のせいだ」
「それは……否定できません」
エルシアは苦笑した。
「少し休んでください。今日はもう修行なしです」
「師匠が許可するのか」
「しました」
「珍しいな」
「私が頼んだので」
恒一はエルシアを見た。
本気で心配してくれていた。
「ありがとう」
「お礼を言われるほどじゃないです」
「頼んでくれたんだろ」
「……まあ」
エルシアは少し視線を逸らした。
照れているのかもしれない。
「コウイチさんが潰れたら、私の仲間が減るので」
「実利的な理由か」
「半分くらいは」
「半分は?」
「……心配だったので」
素直に言った。
それだけだった。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
他の三人が眠りについた後。
恒一は眠れなかった。
身体は限界だった。
眠れないくらい痛かった。
全身の筋肉が熱を持っている。
腕を動かすだけで、どこかが軋む。
焚き火の炎が、静かに揺れている。
恒一はずっと、その炎を見ていた。
考えないようにしていた。
ノートのことを。
だが、考えないようにするほど、考えてしまう。
使えば、楽になる。
一文書けば、この痛みが消える。
もっと書けば、もっと強くなれる。
限界を超えた身体が、補強される。
魔力感知も、一晩で開けるかもしれない。
エルシアを模擬戦で倒せるくらいには、なれるかもしれない。
師匠に認めさせるくらいには。
リリスを本当に守れるくらいには。
全部、書けば終わる。
一晩で終わる。
恒一はノートを取り出した。
コートの内ポケットから、静かに。
表紙を見つめる。
黒い表紙。
この世界に来てから、ずっと持っていた。
何度もここで考えた。
何度も踏みとどまった。
だが今夜は。
疲労の底から、静かに声が聞こえる。
――最強になればいい。
書けばいい。
痛みも疲れも全部消してしまえばいい。
いっそ、この身体ごと書き換えてしまえばいい。
恒一はペンを取った。
書きかけた。
その瞬間。
焚き火の向こうで、エルシアが寝返りを打った。
毛布に包まって、静かに眠っている。
白銀の髪が、炎の光に照らされていた。
この人は。
十五年間、死にかけながら修行した。
積み重ねたものは、なくならないと言った。
その横で。
シュラが木にもたれて眠っている。
何百年も生きて、まだ強くなれると思っている。
その隣で。
リリスが人形を抱いて眠っている。
毎日全部見ていた。
転んだ回数まで数えていた。
恒一は手を止めた。
ページを開いたまま、焚き火を見た。
最強になりたいわけじゃない。
痛みを全部消したいわけじゃない。
ただ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
回復が、早くなればいい。
それだけだ。
努力を消すわけじゃない。
八日間の積み重ねは、消えない。
ただ、少しだけ、明日また立てるように。
それだけのことだ。
これくらいは、ズルじゃない。
そう思いながら。
恒一は静かに文字を書いた。
『佐藤恒一は、睡眠時の筋肉疲労の回復が少し早い』
書き終えた。
何かが、少し変わった気がした。
でも次の瞬間には、何も変わっていなかった。
川の音。
炎の音。
三人の寝息。
誰も気づいていない。
恒一はノートを閉じた。
静かに、コートの内ポケットへしまう。
そのまま、目を閉じた。
眠れなかったはずなのに。
今夜は、すぐに眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
恒一は目が覚めた瞬間、わかった。
身体が、軽い。
完全ではない。
筋肉の疲れは残っている。
昨日の傷も消えていない。
だが。
昨夜眠る前より、明らかに楽だった。
立ち上がれる。
手も動く。
脚も、重いが動く。
「……こんなに違うのか」
思わず小さく呟いた。
「お父様、何か言った?」
リリスがすでに目を覚ましていた。
「いや……なんか、よく眠れたのか、思ったより回復してる」
「そう」
「ぐっすり寝れると違うな」
「うん」
リリスはこくりと頷いた。
疑っていない。
そもそも疑う理由もない。
恒一は少し考えた。
ノートに書いたからだ。
それはわかっている。
昨夜「睡眠時の回復が少し早い」と書いた。
その結果がこれだ。
……たった一文で、ここまで違うのか。
改めて実感した。
一文だけだった。
大した改変じゃない。
強くなったわけでも、無敵になったわけでもない。
ただ、回復が少し早くなっただけ。
それだけで、身体がここまで動く。
(……一文で、こんなに変わるんだな)
今度は声に出さずに思った。
エルシアが焚き火の前で伸びをしながら言った。
「おはようございます。顔色いいですね」
「少し楽な気がする」
「よかったです。昨日は無理させすぎてすみませんでした」
「お前のせいじゃないって言っただろ」
「でも」
「師匠のせいだ」
「……否定できません」
いつも通りの朝だった。
シュラが木から離れて酒瓶に手を伸ばした。
「今日も修行じゃ」
「昨日死にかけたんだが」
「昨日より動けそうな顔をしておる」
「……まあ、そうかもしれないけど」
「ならいい」
恒一は自分の手を開いた。
昨日、崖で削れた手のひら。
傷は残っている。
だが、なぜか違和感がなかった。
これくらいは、普通のことだ。
そう思えた。
何も変わっていない。
ただ、少し体質が違ったのかもしれない。
そういうことにした。
そういうことで、問題ない。
恒一は立ち上がった。
走り込みの準備をした。
昨日より確かに動ける身体で。
昨日と変わらない顔で。
ノートを使ったことは、知っている。
楽になったのも、ノートのせいだとわかっている。
それでも。
この感覚が、悪くない。
もう一度使えば、また楽になれる。
そのことも、わかっていた。
わかった上で。
恒一は歩き出した。
ちょっとだけだから。
本当に、ちょっとだけだから。
その言葉が、頭の中を静かに流れていた。
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