第二十五話:旅と修行の日々で、少しずつ何かが積み重なっていく件
二日目の朝も、シュラに叩き起こされた。
三日目も。
四日目も。
五日目も。
夜明け前に起こされ、走らされ、登らされ、逃げさせられる。
それが当たり前になっていった。
◇ ◇ ◇
二日目。
山道の走り込みの後、シュラが川を指差した。
「渡れ」
「また川か」
「今日は上流じゃ」
上流は水流が速い。
昨日より倍は流れが強かった。
恒一は飛び込んだ。
冷たい。
水が重い。
足場を探す。
岩に手をかける。
何とか対岸へ渡り切る。
「今度は戻れ」
「往復かよ!」
「往復じゃ」
また飛び込んだ。
戻ってくる頃には、腕がほとんど上がらなかった。
「次は崖じゃ」
「無理だ今日はもう……」
「無理でもやれ」
シュラは笑っていた。
楽しそうだった。
恒一は崖を見上げて、小さく息を吐いた。
登った。
途中で三回すべった。
手のひらの皮が削れた。
それでも上まで辿り着いた。
「悪くないのう」
シュラが下から言った。
褒め言葉のつもりらしい。
「今の何が悪くないんだよ……」
「落ちなかったじゃろ」
「三回すべったんだが」
「落ちてはいない」
理屈はわかる。
わかるが。
しんどい。
◇ ◇ ◇
夕方。
川辺の野営地に戻ると、エルシアがすでに夕食の準備をしていた。
焚き火。
煮込んだ肉と野菜の鍋。
どこから調達してきたのか、硬いパンが数枚。
「お帰りなさい。今日もひどい顔ですね」
「褒めてるのか」
「褒めてません」
エルシアは苦笑した。
「でも、昨日より崖の登り方が安定してましたよ」
「見てたのか」
「一応」
恒一はそれだけで、少し報われた気がした。
見られていたとは思わなかった。
「お父様」
リリスが近づいてくる。
手に水筒を持っていた。
「水」
「ありがとう」
「転んだ」
「見てたのかよ」
「三回」
「正確に数えてたのかよ」
リリスはこくりと頷く。
「全部見てた」
「そっちも見られてたか……」
「でも三回とも落ちなかった」
フォローのつもりらしい。
恒一は苦笑しながら水を飲んだ。
焚き火の前に腰を下ろす。
全身が痛い。
特に手のひらと脚。
だが、食欲だけはある。
鍋から椀に肉を盛る。
「うまい」
「私が作ったわけじゃないですけどね」
エルシアが苦笑する。
「材料は師匠が持ってきたので」
「何で仕留めたんだあれ」
「聞かない方がいいと思います」
確かに聞かない方がよさそうだった。
そのシュラは焚き火の反対側で酒を飲みながら空を見ていた。
「今日は星がよく見えるのう」
「師匠、食べてください」
「酒があれば十分じゃ」
「栄養を取ってください」
「酒に栄養はある」
「ないですよ??」
いつも通りのやり取りだった。
リリスは自分の椀を両手で持ちながら、もくもくと食べている。
「おいしい」
満足そうだった。
この景色も、少しずつ見慣れてきた。
◇ ◇ ◇
三日目。
この日は木剣を渡された。
「振れ」
シュラが言った。
「どのくらい?」
「飽きるまで」
「具体的な数字で言ってくれ」
「飽きるまでじゃ」
仕方なく振り始めた。
百回。
二百回。
三百回。
腕が痺れ始める。
四百回。
五百回。
フォームも何もわからないまま振り続ける。
「腕だけで振るな」
エルシアが横から言った。
「腰から動かすんです。剣は腕で振るんじゃなくて、身体全体で動かすもので」
「理屈はわかるが……」
「やってみてください」
腰から動かす。
確かに、少し違う感覚があった。
「そうです。もう一度」
エルシアが隣に立って示してくれる。
美しい動作だった。
無駄がない。
一振り一振りが、空気を切る音からして違う。
「そんな動きができるわけないだろ……」
「今はできなくていいですよ」
エルシアは頷く。
「型を覚えるのは後でいいです。今は身体に動きを馴染ませるだけで十分です」
「そういうもんか」
「私も最初は全然できませんでした」
「お前が?」
「はい。師匠に怒られてばかりでした」
「師匠が怒るのか」
「怒ります。めったにないですけど、怒る時は怖いですよ」
そう言いながら、エルシアはちらりとシュラを見た。
シュラは離れた木陰で酒を飲んでいた。
全然指導する気がない。
「……師匠の修行って、放置なんですね」
「ほとんど放置です。たまに口だけ出してきます」
「それが修行なのか」
「師匠の理論では、失敗しながら自分で学ぶのが一番早いらしいです」
「乱暴だな」
「本当に乱暴なんですよ……」
エルシアは苦笑した。
だが、その苦笑の端に、どこか温かさがあった。
文句を言いながらも。
この師匠のことを、悪く思っていない。
そういう顔だった。
◇ ◇ ◇
四日目の夕方。
「魔力感知をやれ」
シュラが言った。
「魔力感知?」
「目を閉じて、周囲の気配を感じろ」
「やったことないんだが」
「だからやるんじゃ」
恒一は目を閉じた。
何も感じない。
川の音。
風の音。
鳥の鳴き声。
それだけだ。
「何も感じない」
「そうじゃろうな」
「じゃあ意味ないんじゃ……」
「感じようとするのが修行じゃ」
全然わからない。
「エルシアも最初はわからなかったのか」
「はい。魔力感知は才能の差が出やすいので……」
エルシアは少し言葉を選ぶような顔をした。
「正直、最初の一年は全くわからなかったです」
「一年?」
「はい。それでも続けていたら、ある日突然、少し感じられるようになりました」
「一年続けて突然か」
「修行ってそういうものみたいです」
恒一はまた目を閉じた。
何も感じない。
当然だ。
まだ三日しか経っていない。
それでも、やる。
やるしかない。
「リリスは感知できるのか?」
目を閉じたまま聞く。
「ん」
リリスの声がした。
「どのくらい?」
「……この森全部」
「広すぎる……」
「エルシアも感知できる」
「どのくらいの範囲ですか?」
「……だいたい半径三キロくらいです」
「それも十分化け物だぞ」
「普通は数十メートルらしいです」
恒一の感知範囲は、目を閉じても、ゼロだった。
◇ ◇ ◇
五日目。
この日初めて、エルシアと軽い模擬戦をやった。
「本当に軽くでいいです。感覚を掴むだけで」
エルシアは木剣を持っていた。
「死にませんから安心してください」
「その言葉が一番不安なんだが」
「大丈夫ですよ」
エルシアが構える。
美しかった。
無駄がない。
隙がない。
どこから踏み込んでいいのかわからない。
恒一は木剣を握り直した。
踏み込む。
一秒後には弾かれていた。
「うっ……」
「今のは良かったです。踏み込みが一歩目だけ速かった」
「褒めてるのか」
「褒めてます」
もう一度。
また弾かれた。
五回。
十回。
全部弾かれた。
一度も当たらなかった。
「へぇ」
シュラが近くで酒を飲みながら言った。
「十回以上続いたじゃろ」
「当たってないんだが」
「初日に比べれば大したものじゃ」
シュラにしては珍しく、本当のことを言っている気がした。
「昨日の自分より少し動けてる。それでいいんですよ」
エルシアも頷く。
「私も、師匠に初めて挑んだ時は一秒も持ちませんでした」
「一秒?」
「構えた瞬間に木剣が飛んでいきました」
「それは怖い話だな……」
「今でも師匠には勝てません」
エルシアは静かに言った。
「それでも、昔よりはずっと動けるようになりました」
恒一はエルシアの横顔を見た。
白銀の髪。
落ち着いた青い瞳。
強い。
本当に強い。
だが、最初からそうじゃなかった。
積み重ねてきた。
一日一日。
失敗しながら。
怒られながら。
それでも積み重ねて、今がある。
恒一はもう一度、木剣を構えた。
◇ ◇ ◇
七日目の夜。
恒一は眠れなかった。
全身が痛い。
筋肉が熱を持っている。
少し動かすだけで、どこかが軋む。
焚き火だけが、静かに燃えていた。
他の三人は眠っている。
シュラは木にもたれてすでに寝ていた。
エルシアは毛布に包まって静かに眠っている。
リリスは恒一の隣で、人形を抱えたまま眠っていた。
その寝顔を見ながら。
恒一はぼんやりと考えた。
この七日間で、少しは動けるようになった。
走り込みは最初の半分の時間で距離が増えた。
崖登りは、もう三回すべらなくなった。
川渡りも、怖くなくなってきた。
積み重ねてはいる。
それは確かだ。
だが。
エルシアは軽々と動く。
シュラは意味がわからない。
リリスは常時浮いている。
自分だけが。
普通だった。
努力しても、あの三人には追いつかない。
もし本当に強くなる必要があるなら。
この普通の身体では、足りないのかもしれない。
コートの内ポケットが、わずかに重い。
黒いノート。
ずっとそこにある。
――ノートなら、一瞬なんだよな。
その考えが、頭の端に浮かんだ。
一文書けば、筋肉痛が消える。
もう少し書けば、もっと速く走れるようになる。
さらに書けば、魔力感知も開けるかもしれない。
すべて、一晩で解決できる。
恒一は、その考えを静かに見つめた。
消そうとしなかった。
消せないとわかっていたからだ。
だが。
使わなかった。
エルシアが、七日間ずっと恒一に合わせて走ってくれた。
置いていかなかった。
待ってくれた。
「きついのは、わかります」と言ってくれた。
シュラが「悪くないのう」と言った。
あの人は多分、嘘はつかない。
リリスが毎日水を持ってきた。
毎日見ていた。
転んだ回数を数えていた。
それが、全部積み重なっている。
ノートで一瞬で手に入れたものが、それと同じ意味を持つのか。
持たない。
そう思う。
少なくとも、今は。
――それに。
急に強くなった自分が、どうなるかわからない。
ノートを使うたびに、少しずつ感覚がズレていく気がする。
便利だと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていく気がする。
それが怖かった。
自分が自分でなくなっていくような、そんな怖さ。
恒一は焚き火を見た。
炎が静かに揺れている。
「……もう少しだけ頑張ってみるか」
誰に言うでもなく、呟いた。
今日は、ノートを使わない。
それだけ決めた。
◇ ◇ ◇
隣で、リリスが寝返りを打った。
人形を抱いたまま、少し身体を丸める。
その寝顔を見て。
恒一は少し笑った。
この子を守れるくらい、強くなれるのか。
まだわからない。
ただ。
焚き火の温かさの中で。
恒一は目を閉じた。
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