第二十三話:修行が始まる前夜に、リリスが結界を貼ってくれた件
その日の夕方。
四人は森を抜けた先の小さな川辺で野営をすることになった。
赤く染まった空。
川のせせらぎ。
焚き火の爆ぜる音。
リリスは拾ってきた木の実を並べている。
シュラはどこから捕まえてきたのか、大型の猪のような魔物を片手で引きずってきた。
「獲ってきたぞ」
「師匠、それ絶対一人で食べ切れる量じゃないですよね?」
「余れば明日食えばよい」
「保存って概念あります?」
「ない」
「でしょうね!!」
エルシアが頭を抱える。
もう見慣れてきた光景だった。
恒一は苦笑しながら荷物を下ろす。
だが、その瞬間。
足に鈍い痛みが走った。
「……っ」
地味にきつい。
普段デスクワーク中心だった社会人が、いきなり山道を一日中歩かされているのだ。
足も腰も悲鳴を上げていた。
エルシアがちらりとこちらを見る。
「大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか」
「顔色はなんとかなってる人の顔じゃないですけど」
「気のせいだ」
「強がり下手ですね……」
エルシアは少し呆れたように笑った。
その横で。
シュラが肉を地面へ放り投げる。
「ふむ」
じろじろと恒一を見た。
「やはり貧弱じゃのう」
「否定はできない」
「このままでは帝国に着く前に死ぬぞ」
「さらっと怖いこと言うな」
「事実じゃ」
シュラは真顔だった。
エルシアがため息を吐く。
「師匠基準で話さないでください。普通の人ならこんなものですよ」
「普通が弱すぎるんじゃ」
「師匠がおかしいんです」
いつもの流れだった。
だが。
シュラは酒瓶を揺らしながら、にやりと笑う。
「よし。決めた」
「嫌な予感しかしないんですが」
「恒一、明日から修行じゃ」
嫌な予感が当たった。
「……は?」
「帝国へ行くまでに多少は鍛える」
「いや待て」
「安心せい」
シュラは妙にいい笑顔だった。
「死なん程度には加減してやる」
「その言い方で安心できると思うか?」
「ワシはできる」
「師匠基準やめてください!!」
エルシアのツッコミが飛ぶ。
だが、シュラは気にしない。
「まずは走り込みじゃな」
「普通だな」
「その後、崖登り」
「普通じゃなくなった」
「最後に魔物から逃げる」
「完全におかしいだろ」
「大丈夫じゃ」
シュラは酒を飲みながら言った。
「死にそうになったら助ける」
「それ死ぬ前提じゃないか」
「修行とはそういうものじゃ」
「違いますからね!? 師匠の修行はだいたいおかしいですからね!?」
エルシアが全力で補足してくる。
説得力しかなかった。
恒一は思わず額を押さえた。
「……逃げたい」
「逃がさん」
シュラが笑う。
その時だった。
ずっと静かに聞いていたリリスが、恒一の服の袖を引っ張った。
「お父様」
「ん?」
「大丈夫」
リリスはこくりと頷く。
そして。
小さな手を、恒一の胸へ当てた。
瞬間。
ぞわり、と黒い魔力が広がった。
空気がわずかに震える。
焚き火の炎が揺らぐ。
恒一の身体を、淡い黒紫色の光が一瞬包み込んだ。
「……お?」
恒一が目を瞬かせる。
リリスは真顔のままだった。
「結界、貼った」
「結界?」
「お父様、弱い」
「否定はできない」
「だから守る」
リリスは当然のように言った。
「普通の人じゃ破れない」
「普通基準が怖いんだが」
その横で。
エルシアが、ぴたりと固まっていた。
「……え?」
珍しく、本気で困惑した顔だった。
視線は恒一ではなく、リリスへ向いている。
「今の……」
「ん?」
「いや、ちょっと待ってください」
エルシアは真面目な顔になる。
「その結界、普通じゃないですよね?」
「普通」
「普通じゃありません」
即答だった。
「王国の宮廷魔導師でも、あんな多重自動防御術式は張れませんよ? しかも今、一瞬で展開しましたよね? 詠唱もなしで?」
「まあ、旅の仲間じゃし、そんな気にせんでよいじゃろ」
シュラが酒を飲みながら適当に言う。
「いや気になりますって!?」
「細かいのう」
「師匠が雑すぎるんです!!」
エルシアは頭を抱えた。
だが。
リリスは気にした様子もなく、恒一の隣へ腰を下ろす。
「これで死なない」
「普通にやったら死ぬ前提で話が進んでるの怖いな」
「安心せい」
シュラが笑う。
「死なん」
「その言葉、全然信用できないんだが」
「エルシアも昔は似たようなこと言っとった」
「私は実際何回か死にかけましたからね!?」
「強くなったじゃろ?」
「結果論です!!」
川辺へエルシアのツッコミが響く。
リリスはそんな二人を見ながら、恒一の隣に座ったまま小さく言った。
「お父様」
「ん?」
「頑張る?」
「……まあ、ほどほどに」
「応援する」
そう言って。
リリスは少しだけ嬉しそうに笑った。
恒一は焚き火を見つめながら、小さく息を吐く。
異世界。
鬼人の師匠。
白銀の剣聖。
災厄の魔女。
そして。
明日から始まるらしい、頭のおかしい修行。
「……帰りたい」
「諦めるの早すぎません?」
エルシアの苦笑混じりの声が返ってきた。
焚き火の火が、ぱちりと音を立てる。
騒がしくて。
妙で。
でも、少しだけ心地よい夜だった。
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