第二十二話 ノートをただのメモ帳にしておいたら、何かが少しズレた件
エルシアの叫び声が森へ響く。
鳥が一斉に飛び立ち、しばらく木々がざわついていた。
その騒がしさが落ち着いてから。
恒一は、ふと三人の背中を見た。
鬼人の師匠。
白銀の剣聖。
災厄の魔女。
どう考えても普通じゃない連中だ。
しかも全員、勘が鋭そうだった。
今はまだいい。
だが、この先も旅を続けていけば。
きっと、ノートを使わざるを得ない場面が出てくる。
問題は、その時だ。
今のままでは。
ノートを見られた瞬間、面倒になる。
恒一は内心で小さく息を吐いた。
……先に潰しておくか。
「ん?」
少し歩みが遅れた恒一を、リリスが見上げる。
「どうした?」
「なんでもない」
恒一は適当に答えながら、懐へ手を入れた。
黒いノート。
異世界へ巻き込まれた時から持っていた、常識改変のノート。
恒一は歩きながら、自然な動作でページを開く。
エルシアがちらりと振り返った。
「あれ? 何か書いてるんですか?」
「ああ。旅のメモ」
「真面目ですねぇ……」
エルシアは少し感心したように言った。
「私は旅の記録とか、途中から絶対面倒になります」
「お主は雑じゃからのう」
「師匠にだけは言われたくないです」
いつものやり取りが始まる。
その横で。
恒一は、静かに文字を書いた。
『佐藤恒一が持つ黒いノートは、ただのメモ帳である』
『彼がノートに何かを書いているところを見ても、誰も不思議に思わず、気にも留めない』
書き終えた瞬間。
黒い文字が、じわりと紙へ沈んだ。
何度見ても、不気味な光景だった。
だが。
「何書いてるんです?」
エルシアが普通に聞いてくる。
「今後の予定とか、色々」
「あー、なるほど」
本当にそれだけだった。
疑問も違和感もない。
まるで最初から、"それが普通"だったかのように。
……よし。
恒一は小さく息を吐く。
だが、念のためだ。
このノートは、常識そのものを改変する。
なら。
そこまで含めて、先に固定しておいた方がいい。
恒一は再びペンを走らせた。
『このノートによって突然常識が変わったとしても、誰も不自然だとは思わない』
『人々は、最初からそうだったと自然に認識する』
『誰かにノートの内容を見られた場合でも、書かれている内容は"ただの旅のメモ"として認識される』
『ノートの本来の内容に疑問を抱く者はいない』
一瞬。
ぞわり、と。
空気が揺れた気がした。
風が止まる。
森が静まり返る。
ほんの数秒。
世界そのものが、何かを書き換えられたような感覚。
だが次の瞬間。
「恒一、遅いぞー」
シュラの気楽な声が飛んできた。
「お父様」
リリスも戻ってくる。
エルシアは不思議そうに首を傾げた。
「……どうかしました?」
「いや」
恒一はノートを閉じる。
「なんでもない」
「そうですか?」
エルシアは軽く流した。
本当に、それだけだった。
誰も気にしない。
誰も疑わない。
誰も違和感を持たない。
それが当然であるかのように。
恒一は閉じたノートを見下ろした。
……便利だな。
そう思った瞬間。
自分の感覚が少しだけズレたことに、恒一自身はまだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
「ところで恒一」
歩きながら、エルシアが何気なく聞いてきた。
「そのメモ帳って、そんなに色々書いてるんですか?」
「ああ。忘れやすいからな」
「几帳面なんですねぇ……」
「そうか?」
「師匠と旅してると、記録係は大事ですよ」
「なんじゃそれは」
「師匠が全部忘れるからです!!」
「細かいことは気にせん主義じゃ」
「そのせいで宿代の支払いを忘れて追い出されたことありましたよね!?」
「懐かしいのう」
「私は全然笑えませんでしたからね!?」
また騒がしくなる。
恒一はそんな三人を見ながら、小さく笑った。
これでいい。
少なくとも。
このノートのことを説明する必要は、もうなくなった。
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