幕間八:剣聖の師匠が急に方向転換した件
一方、その頃。
遠く離れた東大陸の街道を、二人の女が歩いていた。
一人は、白銀の髪を持つエルフの剣士。
《白銀の剣聖》――エルシア・ルーンフェルト。
もう一人は、小柄な鬼人の少女。
酒瓶を片手にぶら下げ、旅杖のように巨大な呪具を引きずる、規格外の存在。
エルシアが師と仰ぐ者だった。
「師匠」
エルシアが口を開く。
「そろそろ、次の街で情報収集をした方が良いと思います」
「うむ」
返事は軽い。
師匠は酒瓶を揺らしながら、ぼんやり空を見ていた。
「……聞いていますか?」
「聞いておる」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんで返さないでください」
エルシアはため息を吐いた。
この旅が始まってから、何度目かわからないため息だった。
昔馴染みを探す。
それが師匠の目的だ。
だが、その情報があまりにも曖昧すぎる。
黒髪。
異国風の男。
妙な言葉を使う。
それくらいしかない。
顔もうろ覚え。
声もうろ覚え。
どこで出会ったのかも曖昧。
正直、よくそれで探そうと思ったな、というレベルだった。
「しかしのう」
師匠が、ふと立ち止まる。
エルシアは顔を上げた。
「どうしました?」
「……妙じゃ」
「妙?」
師匠は、遠くを見るように目を細める。
「なんじゃろうな。急に、妙な感覚がある」
「敵ですか?」
「違う」
鬼人の少女は、しばらく黙り込んだ。
風が吹く。
銀白色の髪が揺れた。
「……ヴァルクレスト王国じゃな」
「はい?」
エルシアが瞬きをする。
「今、何と?」
「ヴァルクレスト王国じゃ」
師匠は、当然のように言った。
「昔馴染みは、そこにおる気がする」
「……師匠」
「なんじゃ」
「ヴァルクレスト王国って、西大陸ですよ?」
「うむ」
「私たち、せっかく東大陸まで来たんですよ?」
「そうじゃな」
「今から戻るんですか?」
「うむ!」
迷いのない返事だった。
エルシアは無言で空を見上げた。
青い空。
流れる雲。
自分たちはつい先日、手掛かりを求めて海を渡り、ようやく東大陸へ来たばかりだった。
湿原を抜け。
竜と戦わされ。
ようやくまともな街道へ出た。
その直後に、師匠は言うのだ。
やっぱり西大陸だった、と。
「……根拠は?」
「勘」
「でしょうね」
エルシアは深いため息を吐いた。
この師匠は、大体いつも勘で動く。
だが問題なのは、その勘が異様に当たることだった。
だから、否定しづらい。
「ちなみに、どの辺りかまでは?」
「うむ。宿場町のような場所じゃな」
「宿場町……」
「飯がうまそうな気配がする」
「それは昔馴染み探しの手掛かりなんですか?」
「大事じゃろう」
「大事ではありますけど、方向性が違います」
師匠はくつくつ笑う。
だが、その横顔はどこか珍しく真面目だった。
いつもの気まぐれだけで言っているわけではない。
エルシアには、そう見えた。
「……それほど気になるんですか」
「うむ」
師匠は空を見上げる。
「なんというか、呼ばれたような気がしてのう」
「呼ばれた?」
「言葉ではない。気配でもない。じゃが、あやつに会うなら、今な気がする」
「……」
エルシアはしばらく師匠を見つめた。
軽口ばかりの師匠が、こういう顔をする時は厄介だ。
本人は勘と言う。
だが、それはただの勘ではない。
長い年月と、無数の死線を越えてきた者だけが持つ、理屈にならない確信。
ならば、自分が止めても意味はない。
「……はぁ」
エルシアは肩を落とした。
「まぁ、ついて行きますけど」
「そう言うと思ったわい」
「ただし、また竜と戦わされるのは嫌です」
「何を言う。あれくらい余裕じゃったろう」
「余裕なわけないじゃないですか!」
エルシアが即座に否定する。
「叫びながら戦ってたの、まだ根に持ってますからね!?」
「お主、あれ以来ちょくちょく言うのう」
「当たり前です!」
師匠は楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
エルシアは、心底疲れた顔をする。
この人が、自分の師匠なのだ。
今さらだが。
苦労が絶えない。
「では、港へ向かいます。西大陸へ戻るなら船を探さないといけません」
「うむ」
「今度こそ、ちゃんと目的地を決めて動きますからね」
「任せた」
「師匠も少しは考えてください」
「考えるのは苦手じゃ」
「でしょうね」
エルシアはもう一度ため息を吐いた。
そして、街道の先へ歩き出す。
西大陸へ。
ヴァルクレスト王国へ。
師匠の昔馴染みとやらが本当にいるのかは、まだわからない。
けれど。
少なくとも、師匠の足取りは先ほどより軽くなっていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
《木漏れ日の亭》の二階。
朝の光が、薄いカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
恒一は、ぼんやりとした意識の中で、妙な温もりを感じていた。
柔らかい。
近い。
それに、微かに甘い香りがする。
「……ん……」
まだ重たい瞼をゆっくり開く。
すると。
すぐ目の前に、琥珀色の瞳があった。
「……」
「……」
一瞬、思考が止まる。
リリスだった。
すぐ隣。
同じベッドの中。
枕へ頬を乗せるように寝転びながら、じっと恒一を見ていた。
距離が近い。
近すぎる。
あと、目が合っている。
「……怖いわ」
恒一が掠れた声で呟く。
リリスはぱちりと瞬きをした。
「起きた」
「それは見ればわかる」
「ずっと待ってた」
「なぜ」
「お父様、昨日ずっと起きてたから」
リリスはそう言って、小さく身体を寄せる。
外套代わりの黒い布が、ふわりとシーツへ広がった。
紫がかった長い髪が、朝日に透ける。
壊れた黒い人形を抱えたまま、リリスは嬉しそうに目を細めていた。
「……気づいてたのか」
「うん」
「寝てろよ」
「寝てた」
「いや起きてるだろ今」
「お父様が起きる前に起きた」
「器用だな」
リリスは少しだけ首を傾げる。
その仕草は年相応に幼いのに、服装だけは相変わらず禍々しい。
巨大な魔女帽子まで被ったまま添い寝しているのは、どうなんだ。
「お父様、昨日ずっと悩んでた」
「……まあな」
「リリスのせい?」
不安そうな声だった。
琥珀色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
恒一は少し黙る。
昨夜。
リリスが盗賊を蹂躙した光景。
泣きそうな顔で、自分の無事を確認してきたこと。
ノートへ書き込んだ内容。
全部が頭に残っていた。
だが。
その不安そうな顔を見ていると、責める気にはなれなかった。
「違う」
恒一は小さく息を吐く。
「お前のせいじゃない。ただ、このままだと危ないと思っただけだ」
「危ない?」
「ああ。俺がもっと強くならないとな」
「強くなる?」
「そうだな」
その瞬間。
リリスの表情が、ぱっと明るくなった。
まるで、褒められた子どもみたいだった。
「じゃあ、お父様、傷つかない?」
「すぐには無理だ」
「むぅ」
リリスが頬を膨らませる。
「でも、努力はする」
「うん」
リリスは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ身体を擦り寄せる。
温かい。
細い身体だった。
昨夜、人を一瞬で殺した存在とは思えないくらいに。
「リリスも守る」
「そこは変わらないんだな」
「変わらない」
即答だった。
迷いが一切ない。
恒一は苦笑する。
「ただ、過剰反応はやめろ」
「努力する」
「努力目標みたいに言うな」
リリスはじっと恒一を見る。
それから、ぽつりと言った。
「お父様」
「なんだ」
「今日、ちゃんと寝た顔してる」
「……そんなにひどかったか?」
「昨日、怖い顔してた」
「三十八歳の男の寝顔観察するな」
「見てた」
「聞いてない」
リリスは少し嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、昨夜の重苦しさが少しだけ薄れる。
だが同時に、思う。
この少女は、本当に自分だけを見ているのだと。
だからこそ。
自分が壊れれば、この少女も壊れる。
「……はぁ」
恒一は天井を見上げる。
強くならないといけない。
本当に。
色々な意味で。
その時。
一階から、盛大な音が響いた。
がしゃんっ!!
続いて。
「あわわわわっ!?」
聞き覚えのある声。
恒一は無言になる。
リリスもぱちぱち瞬きをした。
「……ミリア」
「たぶんな」
二人は顔を見合わせた。
そして。
ほぼ同時に、小さくため息を吐いた。
◇ ◇ ◇
一階へ降りると。
案の定、ミリアが床へしゃがみ込んでいた。
割れた皿を前に、半泣きで固まっている。
「うぅ……」
「何やったんだ今度は」
「お皿、三枚持とうとして……」
「なんで増やした」
「いけるかなって……」
「いけてないだろ」
ミリアはしょんぼりする。
だが、その後ろから女将らしき女性が笑った。
「気にしないでくださいな。ミリアちゃん、毎日あんな感じなので」
「毎日なんですか……」
「でも頑張り屋さんなんですよ〜」
「うぅ……」
褒められているのか微妙だった。
リリスはそんなミリアを見て、少し考える。
それから。
ぽてぽて歩いていき。
割れていない皿を拾って、ミリアへ渡した。
「これ」
「……あっ。ありがとうございます!」
ミリアの表情がぱっと明るくなる。
「リリスちゃん優しいですね〜!」
「いい子」
「自分で言うのか」
「事実」
リリスは真顔だった。
ミリアはくすくす笑う。
「朝ご飯、もうすぐできますからね!」
そう言って立ち上がり。
今度は椅子に足をぶつけた。
「いたっ」
「朝から騒がしいな……」
恒一は額を押さえた。
だが。
昨日までより、少しだけ気分が軽かった。
強くなる。
その道筋は、一応できた。
問題は、これからだ。
どう鍛えるか。
どう生きるか。
どうやって、リリスの不安を減らせるくらいになるか。
その答えは、まだ見えていない。
けれど。
運命みたいなものは、もう動き始めていた。
西大陸へ戻ろうとしている二人の強者によって。
そして。
黒いノートによって。
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