第十八話:リリスが本気を出したから、俺はノートで自分を書き換えることにした件
矢が飛んだ。
恒一は、気づけなかった。
風を裂く音。
それが耳に届いた時には、もう遅い。
「――」
だが。
矢は、恒一へ届かなかった。
黒い影が、目の前を横切った。
リリスだった。
彼女は右手を軽く上げていた。
ただ、それだけ。
矢は空中で止まり。
次の瞬間、音もなく崩れた。
木片も。
鉄の矢じりも。
粉になって、風に消えていく。
「……リリス?」
恒一が名前を呼ぶ。
だが、返事はなかった。
リリスは、矢が飛んできた方向を見ていた。
琥珀色の瞳に、光がない。
先ほどまで薬草を見つけて嬉しそうにしていた少女の顔ではなかった。
空気が、変わる。
ぞわり、と。
恒一の肌が粟立った。
「待て、リリス」
言いかけた瞬間。
リリスの足元の草が、黒く変色した。
風が止まる。
空間が、ぎしりと軋む。
それは、王都で見た時よりも濃い魔力だった。
あの時は、感情が昂った拍子に零れただけだった。
だが今は違う。
明確な怒り。
敵意。
殺意。
それらが、幼い身体から静かに溢れ出していた。
「お父様を」
リリスが呟く。
その声は、ひどく静かだった。
「傷つけようとした」
「リリス、待て」
恒一が手を伸ばす。
だが、その手は空を掴んだ。
リリスの姿が、消えた。
◇ ◇ ◇
「な、なんだ……?」
弓を放った盗賊は、震えていた。
確かに当たるはずだった。
狙いは間違っていなかった。
距離も。
風も。
角度も。
すべて問題なかった。
なのに、矢は消えた。
「おい、今の何だよ」
「魔法か?」
「ガキの方だ……あのガキ、何かしたぞ」
男たちが慌てる。
その時。
背後から、小さな声がした。
「見つけた」
盗賊たちの身体が凍りついた。
いつの間にか。
黒い少女が、そこに立っていた。
巨大な魔女帽子。
漆黒のドレス。
壊れた黒い人形。
ついさっきまで、草原の向こうにいたはずの少女。
その少女が。
今、目の前にいる。
「な――」
男が剣を抜こうとした。
だが。
抜けなかった。
手首から先が、なかった。
「ぎゃあああああっ!」
叫び声が上がる。
それが合図になった。
他の盗賊たちが、一斉に動こうとする。
逃げる者。
剣を抜く者。
魔法具らしきものを構えようとする者。
だが。
どれも、遅かった。
「お父様を狙った」
リリスが一歩進む。
その足元で、草が枯れる。
「お父様を傷つけようとした」
指先が、わずかに動く。
次の瞬間。
盗賊の一人が、地面へ叩きつけられた。
別の一人は、木の幹へめり込む。
弓を持っていた男は、声を上げる暇もなく、黒い霧に飲まれた。
戦いではなかった。
抵抗でもなかった。
そこにあったのは、ただの蹂躙だった。
「や、やめ――」
最後の一人が、尻餅をついたまま後ずさる。
リリスは、その男を見下ろした。
琥珀色の瞳に、怒りが揺れている。
だが。
涙も浮かんでいた。
「どうして」
リリスは、小さく言った。
「どうして、リリスの大事な人を奪おうとするの」
男は答えられなかった。
答える前に。
黒い魔力が、すべてを覆った。
◇ ◇ ◇
恒一が駆けつけた時。
すべては終わっていた。
草原の一角だけが、不自然に静まり返っている。
鳥の声もない。
虫の音もない。
ただ、重い魔力の残滓だけが、肌にまとわりついていた。
盗賊たちは、倒れていた。
もう動かない。
その中心に、リリスが立っている。
黒い人形を抱いたまま。
小さな肩を震わせて。
「リリス」
恒一が声をかける。
リリスは振り返った。
その顔は、少し泣きそうだった。
「お父様」
「……ああ」
「怪我、してない?」
「してない」
「本当?」
「ああ。本当だ」
リリスはそれを聞くと、ようやく少しだけ表情を緩めた。
そして、恒一の方へ歩いてくる。
「よかった」
そう言って、恒一の服の裾を掴んだ。
その手は、小さかった。
力も、子どもみたいだった。
だが。
その小さな手が、今さっき人間を一瞬で殺した。
恒一は、何も言えなかった。
リリスは悪くない。
少なくとも、彼女の中では。
お父様を守っただけ。
自分の大切な人を傷つけようとした相手を排除しただけ。
それは、リリスにとって当然のことだったのだろう。
けれど。
恒一は理解してしまった。
この少女は、本当に世界を壊せる。
しかも。
自分のために。
自分が傷ついた時に。
自分が死んだ時に。
この少女が何をするのか、想像したくなかった。
「……リリス」
「なに?」
「少し待ってろ」
恒一はそう言って、周囲を見回した。
人はいない。
街道からも外れている。
だが、問題は目撃者だけではない。
魔力だ。
リリスが解放した魔力は、王都の時よりも明らかに濃かった。
もし誰かが感知していれば。
また騒ぎになる。
「……面倒だな」
恒一は疲れたように呟いた。
そして、外套の内側から黒いノートを取り出した。
リリスが不思議そうに首を傾げる。
「お父様?」
「少し、後始末だ」
恒一はペンを握る。
草原の風が、紙の端を揺らした。
それでも、手は止めなかった。
『リリスが今日解放した魔力は、佐藤恒一以外の者には正常に観測されなかった。』
『仮にそれを感知した者がいたとしても、自然現象か一時的な魔力の乱れとして認識する。』
書き終えた瞬間。
ぞわり、と。
草原の空気が、ほんのわずかに震えた。
遠くで鳴いていた鳥の声が戻る。
風が動き出す。
まるで、世界が今起きた異常を何事もなかったことにしようとしているようだった。
恒一はノートを閉じる。
「……これで、少しはマシだろ」
リリスはノートを見つめていた。
だが、何も聞かなかった。
ただ、恒一の服の裾を掴む手に、少しだけ力を込めた。
「帰るぞ」
恒一は静かに言った。
「薬草は?」
「今日はいい」
「依頼」
「報告は後で考える」
リリスは少しだけ首を傾げたが、すぐに頷いた。
「うん」
彼女は素直だった。
怖いくらいに。
◇ ◇ ◇
ラズレットへ戻る道中。
恒一は、ほとんど口を開かなかった。
リリスも黙っていた。
ただ、ずっと恒一の外套の端を掴んでいる。
時々、心配そうに見上げてきた。
「お父様」
「なんだ」
「怒ってる?」
幼い声だった。
恒一は少しだけ足を止めた。
怒っているのか。
違う。
恐れているのか。
それも、少し違う。
いや。
恐れているのは確かだった。
リリスではなく。
この状況を。
リリスを止められない自分を。
「怒ってない」
「本当?」
「ああ」
「……リリス、いけないことした?」
恒一は答えに詰まった。
いけないこと。
そう言い切るのは簡単だ。
人を殺した。
盗賊とはいえ、命を奪った。
だが。
あのままなら、殺されていたのは自分だった。
そしてリリスは、それを防いだ。
彼女の行動は過剰だった。
圧倒的すぎた。
だが、根本にあるのは悪意ではない。
ただ、守りたかっただけだ。
「……次からは」
恒一は慎重に言葉を選んだ。
「俺が止める前に、勝手に殺すな」
リリスが目を伏せる。
「でも、お父様が傷つくかもしれなかった」
「わかってる」
「リリス、嫌だった」
「わかってる」
「お父様が、いなくなるの嫌」
声が震えていた。
恒一は、深く息を吐いた。
そして、リリスの頭に手を置く。
「俺も、簡単に死ぬつもりはない」
「本当?」
「ああ」
「でも、リリスは怖い」
リリスが、真っ直ぐに言った。
「怖い?」
「うん」
リリスは恒一の服を握る手に力を込めた。
「お父様が傷ついたら、リリス、何するかわからない」
その言葉は。
恒一が考えていたことそのものだった。
少女自身も、薄々わかっているのかもしれない。
自分の中にある危うさを。
大切なものを失いそうになった時、自分が何をしてしまうのかを。
「だから……」
リリスは少しだけ不安そうに、恒一を見上げた。
「お父様には、傷つかないでほしい」
弱い。
危ない。
そういう言葉ではなかった。
ただ、願いだった。
子どもが親に向けるような、切実で幼い願い。
恒一は、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく頷く。
「……わかった」
「本当?」
「ああ」
「無茶しない?」
「善処する」
「ぜんしょ?」
「できるだけ、って意味だ」
「ちゃんとして」
「……わかった。ちゃんとする」
リリスはようやく少しだけ安心したように頷いた。
◇ ◇ ◇
木漏れ日の亭へ戻った頃には、日は傾きかけていた。
ミリアが食堂の掃除をしていた。
「あ、お帰りなさい!」
ぱたぱたと駆け寄ってきて。
途中で雑巾に足を滑らせた。
「わっ」
「危ない」
恒一は片手で支えた。
「……本当に危なっかしいな」
「えへへ……お帰りなさいませ」
ミリアは照れたように笑う。
その笑顔を見て、恒一は少しだけ胸が重くなった。
この宿は平和だ。
この街は穏やかだ。
だが、自分たちが抱えているものは、あまりにも危うい。
「依頼、どうでした?」
「……少し、問題があった」
「えっ、大丈夫ですか?」
「怪我はない」
ミリアはほっと息を吐いた。
「よかったです。夕食、温かいものを用意しますね」
「ああ。頼む」
リリスは黙ったまま、恒一の後ろにいた。
いつものように料理に反応しない。
ミリアは少し不思議そうに首を傾げたが、深くは聞かなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
リリスは早く眠った。
食事を取らせ、少し話し、安心させてから、ベッドに横にさせた。
リリスは眠る直前まで、恒一の袖を掴んでいた。
「どこにも行かない?」
「行かない」
「寝てる間も?」
「部屋にはいる」
「うん」
それでようやく、リリスは目を閉じた。
寝息が静かに聞こえてくる。
恒一は机に向かった。
黒いノートを取り出す。
表紙を見つめる。
使うべきではない。
ずっとそう思ってきた。
地球にいた頃から。
この世界に来てからも。
使えば使うほど、歯止めが薄れていく。
それはわかっていた。
田中さん。
ティナ。
魔物。
リリス。
これまで何度も、ノートは現実を書き換えてきた。
そしてそのたびに、恒一は少しずつ慣れていった。
そのことが怖かった。
「……でも」
今日、わかった。
自分がこのままでは、もっと危険だ。
リリスは自分を守る。
きっと、どんな手段を使ってでも。
それが盗賊ならまだいい。
だが、もし相手が街だったら。
国だったら。
世界だったら。
恒一が死にかけた瞬間、リリスは何をする。
答えは出ていた。
この世界が、壊れるかもしれない。
「……強くなるしかない」
ただし。
いきなり絶大な力を手に入れるのは駄目だ。
そんなものを持てば、自分がどう変わるかわからない。
自分は聖人ではない。
特別に強い精神を持っているわけでもない。
ただの三十八歳の会社員だった男だ。
急に世界を支配できる力を持てば、きっとどこかで壊れる。
だから。
選ぶなら、積み重ねる力。
努力した分だけ伸びる力。
自分を保ったまま、少しずつ強くなるための力。
恒一はペンを取った。
しばらく、何も書けなかった。
それから。
ゆっくりと、文字を刻む。
『勇者召喚に巻き込まれた佐藤恒一は、本来この世界には存在しない特異成長因子を持っていた。』
書いた瞬間。
指先が、わずかに震えた。
恒一は続ける。
『彼は努力を重ねるほど能力が飛躍的に成長し、その成長に限界は存在しない。』
『さらに、肉体・魔力・技術の成長速度は、常人を遥かに上回る。』
書き終えた。
何かが、変わった気がした。
だが、劇的な変化はない。
筋肉が膨れ上がるわけでもない。
魔力が爆発的に増えるわけでもない。
ただ、身体の奥に、見えない扉が開いたような感覚があった。
それでいい。
いきなり強くなる必要はない。
強くなれる道を作った。
今はそれで十分だった。
だが。
「……師匠がいるな」
努力するにしても、何をすればいいのかわからない。
戦い方。
魔力の扱い。
身体の鍛え方。
この世界の常識。
一人で手探りするには、限界がある。
恒一は少し考えた。
そして、以前コレットから聞いた存在を思い出す。
剣聖の師匠。
自分を鍛える師としては、これ以上ない。
問題は、どうやって会うか。
恒一はノートへ視線を落とした。
これ以上書くのは危険だ。
そう思う一方で。
必要だとも思った。
今度は、誰かを直接支配するのではない。
少し、流れを作るだけ。
そう自分に言い聞かせる。
そして、書いた。
『剣聖の師匠は、ヴァルクレスト王国の宿場町 《ラズレット》に昔馴染みがいるような気がした。』
『久しぶりに再会した昔馴染みは、以前より遥かに貧弱な身体になっていた。』
『その姿を見た師匠は、放っておけないと感じる。』
『せめて自衛できる程度には鍛え直してやるべきだと考えた。』
書き終えた。
部屋の空気が、ほんのわずかに揺れる。
恒一はノートを閉じる。
「……これでいい」
そう呟く。
本当にそうかは、わからない。
だが、少なくとも今は。
これ以上の選択肢を、恒一は持っていなかった。
ベッドでは、リリスが静かに眠っている。
その顔は、ひどく幼かった。
恒一はしばらくそれを見つめ。
やがて、椅子にもたれかかった。
眠れそうにはなかった。
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