第十七話:穏やかな一日のはずが、草原で矢が飛んできた件
その日の夕食は、思っていた以上に賑やかだった。
一階の食堂には、旅人や商人、冒険者らしき者たちが集まっている。
木製のテーブル。
暖炉の火。
壁に掛けられた古びたランプ。
料理の匂いと人の声が混ざり合い、宿全体がゆるやかな熱を帯びていた。
恒一とリリスは、食堂の隅の席に座っていた。
目立たない場所を選んだつもりだったが。
「お父様、これ」
リリスが皿の上の肉を指差す。
「食べていい?」
「自分の分だろ。食べればいい」
「うん」
リリスは小さく頷き、肉を口に運んだ。
次の瞬間。
琥珀色の瞳が、ぱっと輝く。
「……おいしい」
「そうか」
「やわらかい。あったかい。味がする」
「最後の感想が重いな」
恒一は小さく息を吐く。
リリスは気にせず、幸せそうに料理を食べていた。
その姿だけ見れば、本当にただの子どもだった。
少し変わった格好をした、食いしん坊の少女。
国を滅ぼすほどの魔力を持つ《災厄の魔女》には、とても見えない。
「お待たせしました〜!」
ぱたぱたぱた、と足音が近づいてくる。
ミリアだった。
両手に皿を持ち、にこにこと笑っている。
「こちら、今日のデザートの果物タルトです!」
その言葉に、リリスの背筋がぴんと伸びた。
「デザート」
「はいっ。甘いですよ〜!」
ミリアは嬉しそうに皿を置こうとして。
その直前。
袖口が椅子の背に引っかかった。
「わっ」
「またか」
恒一が反射的に皿を支える。
タルトが少しだけ皿の端へ滑ったが、無事だった。
「……助かりましたぁ」
ミリアは胸を撫で下ろす。
「本当に、毎回危ないな」
「えへへ……でも今日は落としてません!」
「自慢するところじゃない」
「前向きに考えるのは大事かなって」
「前向きすぎる」
ミリアは照れたように笑った。
その笑顔は、妙に人懐っこい。
怒る気を削いでくるタイプだった。
「リリスちゃん、甘いもの好きなんですか?」
「好き」
即答だった。
「じゃあ、少し大きめに切っておきました!」
「いい人」
リリスが真顔で言った。
ミリアの表情がぱっと明るくなる。
「えへへ、ありがとうございます!」
「お前、餌付けされすぎだろ」
「餌付け?」
「いや、なんでもない」
恒一はタルトを一口食べる。
甘酸っぱい果物。
柔らかな生地。
素朴だが、しっかり美味い。
王都で常に周囲を警戒していた時とは、まるで違う。
ここでは、料理を味わう余裕があった。
そのことに気づいて、恒一は少しだけ黙った。
◇ ◇ ◇
夕食を終えた後。
恒一はミリアに案内され、一階奥にある浴場の前まで来ていた。
「お風呂はこちらです!」
ミリアがにこにこと説明する。
「男湯と女湯で分かれてます。時間が遅くなると混むので、今のうちがおすすめですよ〜」
「わかった」
問題は、隣のリリスだった。
黒い魔女帽子。
漆黒のドレス。
魔力封印用の特別製の服。
恒一は小声で聞く。
「……本当に大丈夫なんだな?」
リリスはこくりと頷いた。
「結界張る」
「前に言ってたやつか」
「うん。周りを閉じる。そうしたら漏れない」
「周りを閉じる、が全然簡単に聞こえないんだが」
「簡単」
リリスはあっさり言った。
「お風呂の間くらいなら平気」
信じるしかない。
恒一は小さく息を吐いた。
「無理はするなよ」
「うん」
「あと、変なことをするな」
「変なこと?」
「風呂場を空間ごと消すとか」
「しない」
「ならいい」
リリスは少し不満そうに頬を膨らませた。
疑われたのが気に入らないらしい。
ミリアは二人のやり取りを見て、くすくす笑っていた。
「本当に仲良しですね〜」
「違う」
「お父様」
「そこで乗るな」
◇ ◇ ◇
風呂から上がった頃には、宿の中は少し静かになっていた。
食堂の賑わいも落ち着き、残っているのは酒を飲む旅人が数人だけ。
恒一は濡れた髪を手で拭きながら、二階の廊下へ上がる。
少し遅れて、リリスも戻ってきた。
帽子は被っていない。
黒紫の髪が、まだ少し湿っている。
普段よりも幼く見えた。
「……ちゃんと抑えられたか?」
「うん」
「花とか枯れてないだろうな」
「枯れてない」
「宿も歪んでないな?」
「歪んでない」
「ならよかった」
リリスは少しだけ得意そうだった。
「リリス、上手だから」
「そうだな」
恒一がそう言うと、リリスは嬉しそうに目を細めた。
部屋へ戻ると、リリスは窓際の椅子に座った。
外を眺めている。
宿場町 《ラズレット》の夜は、王都ほど明るくない。
それでも、窓の外にはぽつぽつと灯りがあり、遠くから人の声が聞こえてくる。
「眠くないのか」
恒一が聞くと、リリスは少し首を傾げた。
「眠い」
「なら寝ろ」
「でも、見てたい」
「何を」
「街」
リリスは窓の外を見たまま言った。
「夜なのに、怖くない」
その声は静かだった。
恒一は返事に困った。
かつての彼女が、どういう夜を過ごしてきたのか。
詳しく聞いたわけではない。
だが、楽しいものではなかったのだろう。
誰にも近づかれず。
誰にも受け入れられず。
ただ恐れられてきた少女。
そんな彼女が、今は宿場町の小さな灯りを見て、怖くないと言っている。
「……そうか」
恒一はそれだけ答えた。
リリスは少しだけ笑った。
「お父様がいるから」
「それは理由になるのか」
「なる」
即答だった。
恒一は小さく息を吐き、椅子に腰掛ける。
リリスは、しばらく街を眺めていた。
やがて、うとうとし始める。
椅子の上で船を漕ぐように揺れ、湿った髪が頬にかかった。
「寝るならベッドに行け」
「……うん」
言葉とは裏腹に、動く気配はない。
仕方なく、恒一はリリスの肩を軽く支えた。
その瞬間、リリスが小さく目を開く。
「置いていかない?」
「行かない」
「本当?」
「ああ」
「……うん」
安心したように、リリスは目を閉じた。
恒一はしばらく、その寝顔を見る。
災厄。
魔女。
怪物。
そう呼ばれてきた存在。
だが今は、ただ眠そうな子どもだった。
だからこそ、危うい。
感情が幼いまま、力だけが大きすぎる。
扱いを間違えれば、何が起きるかわからない。
恒一は視線を外し、窓の外を見る。
この街は穏やかだ。
だが。
穏やかな時間ほど、壊れる時はあっけない。
そんなことを思いながら。
夜は静かに更けていった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
《木漏れ日の亭》の食堂は、朝から慌ただしかった。
「おはようございますっ!」
ミリアの声が響く。
同時に。
がたんっ。
何かが鳴った。
「……今度は何をやった」
恒一が振り向くと、ミリアがトレーを抱えたまま固まっていた。
足元には、落ちかけたスプーンが一本。
「セーフです!」
「アウト寄りのセーフだな」
「拾います!」
ミリアはしゃがもうとして、今度は椅子に頭をぶつけた。
「あいたっ」
「本当に大丈夫か、この宿」
恒一は思わず呟く。
それでも、出された朝食は美味かった。
焼きたてのパン。
野菜のスープ。
薄く焼いた肉。
そしてリリス用なのか、皿の端に小さな果物が添えられていた。
「甘い」
リリスは果物を食べて、少し嬉しそうにしている。
「朝から機嫌いいな」
「ご飯おいしい」
「単純だな」
「お父様も食べる?」
「自分の分を食べろ」
朝食を終えると、恒一は立ち上がった。
「ギルドへ行く」
「薬草?」
「たぶんな。周辺を見たいだけだから、簡単な依頼でいい」
「リリスも行く」
「わかってる」
リリスは満足そうに頷いた。
ミリアが食器を片付けながら、こちらを見た。
「外に出るんですか?」
「ああ。少し周辺を確認してくる」
「でしたら、街道からあまり外れない方がいいですよ。最近、盗賊が出るって皆さん話してますから」
「聞いてる」
「あと、森の方は夕方になると霧が出るので、早めに戻った方がいいです」
意外とまともな注意だった。
恒一は少し驚いてミリアを見る。
「……ちゃんと宿の看板娘なんだな」
「はいっ!」
ミリアは誇らしげに胸を張った。
その直後、手に持っていた皿が少し傾いた。
「危ない」
「あっ」
恒一がまた支えた。
「……やっぱり不安だ」
「えへへ……」
ミリアは笑って誤魔化した。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドへ行くと、フィオナが受付にいた。
白銀に近い薄紫の髪。
ふわふわの狐耳。
朝からほんわかした笑顔。
見ているだけなら癒し系だが、昨日の菓子攻撃を思い出すと油断できない。
「おはようございます、コウイチさん、リリスちゃん」
「おはようございます」
「おはよう」
リリスは小さく返す。
フィオナの耳がぴこっと動いた。
「今日も可愛いですね〜」
「ありがとう」
リリスは少し得意そうだった。
「褒められ慣れてきてるな」
「フィオナ、いい人」
「菓子をくれるからだろ」
「それもある」
否定しなかった。
恒一は受付へ依頼の相談をする。
「周辺の地理を覚えたい。危険度が低めの依頼はあるか?」
「でしたら、薬草採取がおすすめです」
フィオナはすぐに依頼票を取り出した。
「町の南東にある草原で採れる薬草です。魔物は少なめですが、念のため街道から大きく外れないようにしてください」
「報酬は?」
「少なめですけど、初心者向けですね。採取量に応じて追加報酬があります」
「それでいい」
「はいっ」
フィオナは依頼証を用意しながら、少し声を落とした。
「ただ、最近は盗賊の話もありますので……本当に気をつけてくださいね」
「ああ」
「特に、親子連れや商人さんは狙われやすいみたいです」
「親子じゃない」
「お父様」
「お前も毎回乗るな」
フィオナはくすくす笑う。
だが、その目には少し心配そうな色もあった。
「夕方までには戻ってきてくださいね」
「わかった」
「リリスちゃんも、コウイチさんから離れないように」
「離れない」
リリスは即答した。
それはそれで、少し重かった。
◇ ◇ ◇
ラズレットの門を抜けると、空気が変わった。
町のざわめきが遠ざかり、代わりに草を揺らす風の音が聞こえてくる。
人の気配が薄い。
その分、空が広かった。
「……いい場所だな」
恒一は地図を片手に歩きながら呟く。
リリスは隣で、黒い人形を抱えながら周囲を見回していた。
「草いっぱい」
「草原だからな」
「薬草もいっぱい?」
「そうだと助かる」
二人は街道を外れ、草原の浅い場所へ入る。
依頼票に描かれた特徴を頼りに、薬草を探し始めた。
「これ?」
リリスが青い葉を摘んで見せる。
「違う。似てるけど葉の形が違う」
「むぅ」
「こっちだ」
恒一はしゃがみ込み、淡い緑色の葉を持つ草を指差した。
「茎に白い筋がある。これが目印らしい」
「白い筋」
「そう」
リリスはじっと薬草を見る。
それから、真剣な顔で別の草を摘んだ。
「これ」
「それは毒草っぽい」
「……似てる」
「似てるけど違う」
リリスは少し悔しそうだった。
その表情が見た目相応に見えて、恒一は少しだけ笑う。
「まあ、焦るな」
「お父様はわかる?」
「俺も依頼票見ながらだ」
「じゃあ同じ」
「同じにするな」
そんなやり取りをしながら、二人は薬草を集めていく。
風は穏やかで。
空は青く。
ラズレットの町は遠くに見えていた。
平和だった。
少なくとも、恒一にはそう見えていた。
◇ ◇ ◇
草原の向こう。
低い茂みの陰。
男たちが、二人を見ていた。
「……見つけた」
小声で呟いたのは、髭面の男だった。
革鎧は薄汚れ、腰には短剣。
弓を持った男が、その横にしゃがんでいる。
「親子連れか?」
「たぶんな」
「護衛なし。荷物も少ねぇ」
「男の方は弱そうだな」
彼らは、ラズレット周辺で旅人を襲っている盗賊の一団だった。
正面から強い冒険者と戦うほどの腕はない。
だから、狙う相手は選ぶ。
商人。
老人。
子ども連れ。
油断した旅人。
今、草原で薬草を探している二人は、まさに格好の獲物に見えた。
「娘の方、変な格好してるな」
「金持ちの子かもしれねぇ。身代金が取れる」
「まず男を潰す」
弓を持った男が、矢をつがえる。
距離は十分。
風は弱い。
相手はこちらに気づいていない。
少なくとも、男たちはそう思っていた。
◇ ◇ ◇
リリスは、気づいていた。
最初から。
町を出て、草原に入ったあたりで、人の気配がついてきた。
足音。
呼吸。
視線。
殺意。
全部、わかっていた。
けれど、何もしなかった。
お父様との時間を邪魔しなければ、どうでもよかった。
お父様が薬草を教えてくれる。
間違えたら、違うと言ってくれる。
正しく採れたら、少し褒めてくれる。
リリスにとっては、それが大事だった。
だから。
茂みにいる人間たちのことなど、どうでもよかった。
「お父様」
「なんだ」
「これ?」
リリスは薬草を摘んで見せる。
恒一は依頼票と見比べ、頷いた。
「ああ。それで合ってる」
「合ってた」
リリスの表情が、少しだけ明るくなる。
「えらい?」
「……まあ、えらい」
「うん」
嬉しかった。
ただそれだけで。
胸の奥が、温かくなる。
だから。
リリスは、背後の殺意を無視していた。
次の瞬間までは。
ひゅっ。
風を裂く音。
矢が放たれた。
狙いは、恒一。
リリスの表情から、感情が消えた。
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