第十六話:宿場町の看板娘が天然すぎた件
冒険者ギルドを出た頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
宿場町 《ラズレット》の中央通りは、昼間よりも賑やかになっている。
露店からは肉の焼ける匂い。
酒場からは笑い声。
旅人たちが宿へ入り始める時間帯だった。
「……フィオナさんの話だと、《木漏れ日の亭》はこの先らしいな」
恒一が通りの先を見る。
さっきの狐耳受付嬢は、街の西側にある宿だと言っていた。
"ご飯がすごく美味しいんですよ〜!"と、妙に力説していたのを思い出す。
「いい匂いする」
隣で、リリスがぴたりと足を止めた。
帽子の下の琥珀色の瞳が、じっと前方を見ている。
「……お前、本当に鼻いいな」
「パンと、お肉と、スープの匂い」
完全に食欲基準だった。
だが実際、その方向からは焼きたてのパンやシチューの香りが漂ってきている。
「……まあ、たぶん合ってるな」
二人はそのまま中央通りを進む。
しばらく歩くと。
街道沿いに、一軒の宿が見えてきた。
二階建ての木造建築。
看板には、《木漏れ日の亭》という文字と、小さな木の葉の紋章が描かれている。
窓からは暖かな橙色の灯りが漏れていた。
入口近くには小さな花壇まである。
旅人向けの宿にしては、妙に家庭的だった。
「……なんか、思ったより普通だな」
恒一がぽつりと呟く。
「普通?」
「いや、冒険者向けの宿って、もっと荒くれ者だらけの場所かと思ってた」
「でも、あったかそう」
リリスが宿をじっと見つめる。
帽子の下の瞳が、少しだけ期待に揺れていた。
◇ ◇ ◇
扉を開ける。
瞬間。
暖かな空気が、ふわりと身体を包み込んだ。
焼きたてのパンの香り。
じっくり煮込まれたシチューの匂い。
暖炉の火が、ぱちぱちと優しく音を立てている。
食堂では旅人たちが料理を囲み、楽しそうに笑っていた。
酒の匂いはある。
だが、王都の冒険者酒場みたいな荒れた空気はない。
どちらかと言えば、“帰ってくる場所”みたいな空気だった。
「……なんか、落ち着くな」
恒一が小さく呟く。
その時だった。
奥の方から、ぱたぱたと軽快な足音が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ――っ!?」
少女がこちらへ振り向く。
ふわりと揺れる、淡い桜色の長い髪。
頭には小さな羽を模した飾り。
柔らかな紫色の瞳。
白と桃色を基調にした可愛らしいエプロンドレス。
春の花みたいに明るい雰囲気の少女だった。
年齢は十六、七くらいだろうか。
だが。
その第一印象を吹き飛ばすくらい、勢いよく走ってきていた。
片手には、大きな木製トレー。
その上には、湯気の立つシチューと焼きたてのパン。
「お客様ですねっ!」
笑顔だった。
ものすごく笑顔だった。
そして次の瞬間。
つるっ。
「わわっ――!?」
床で足を滑らせた。
トレーが大きく傾く。
シチューの表面が危険なくらい揺れた。
「おい危な――」
恒一が反射的に声を上げる。
だが少女は、半泣きみたいな顔になりながらも必死にバランスを取り。
近くのカウンターへ身体をぶつける勢いで、なんとか踏みとどまった。
がたんっ、と皿が鳴る。
シチューが少し床へ飛び散る。
けれど。
奇跡的に、料理は無事だった。
「……た、助かりましたぁ……」
少女は胸を撫で下ろした。
本人の中では完全にセーフ判定らしい。
恒一はしばらく無言になる。
「……大丈夫か?」
「はいっ! よくあります!」
「よくあっちゃダメだろ」
「えへへ……」
笑って誤魔化した。
しかも、その笑顔が妙に可愛いせいで怒りづらい。
なんなんだこの街。
天然しかいないのか。
リリスがじっと少女を見る。
「ピンク」
「はいっ! ミリア・フェンネルです!」
少女はぺこりと頭を下げた。
その勢いでまた少しふらついた。
「この宿、《木漏れ日の亭》の看板娘してます!」
元気いっぱいだった。
フィオナが“ふわふわ天然系”なら。
こちらは“全力ドジっ子系”だ。
忙しそうに動き回っているのに、見ているだけで不安になる。
けれど、不思議と目が離せない。
なんというか。
小動物っぽかった。
「宿、空いてますか?」
「空いてますよ〜! 二名様ですか?」
「……まあ、二人だな」
「親子さんですよね?」
「違う」
「お父様」
「だから追撃するな」
ミリアがくすくす笑う。
「仲良しですね〜」
完全に信じていた。
その直後。
くるっと振り返ったミリアが。
今度は椅子の脚に引っかかった。
「きゃっ」
「危なっ」
がしっ。
恒一が反射的に腕を掴む。
ミリアはぱちぱちと目を瞬かせたあと。
「……えへへ。ありがとうございます」
少し照れたみたいに笑った。
その笑顔は。
暖炉の火みたいに、妙に人懐っこかった。
◇ ◇ ◇
案内された部屋は、二階の角部屋だった。
木の床。
白いシーツ。
小さな机。
窓の外には夕暮れの街並みが見える。
決して豪華ではない。
だが、綺麗に掃除されていた。
「……いい部屋」
リリスがぽつりと呟く。
帽子を押さえながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
ミリアはそんな様子を見て、少し嬉しそうに笑う。
「この部屋、夕焼けが綺麗なんですよ〜!」
そう言って窓を開ける。
涼しい風が、ふわりと部屋へ流れ込んできた。
「お風呂は一階の奥です!」
ミリアが説明する。
「ご飯はもう少ししたらできますので、よければ食堂へどうぞ!」
「ありがとうございます」
「あと!」
ミリアがにこっと笑う。
「今日はデザート付きですよ!」
その瞬間。
リリスの目が輝いた。
「デザート」
「果物のタルトです!」
「泊まる」
「もう泊まってる」
恒一が突っ込む。
ミリアは楽しそうに笑う。
「ふふっ。気に入ってもらえてよかったです」
そう言って部屋を出ようとして。
また少しだけ、扉に肩をぶつけた。
「あいたっ」
「……大丈夫か?」
「はいっ!」
元気だけはあった。
ぱたぱたと去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、恒一は小さく呟く。
「……この街、天然多くないか?」
「いい人いっぱい」
リリスは満足そうだった。
窓際へ歩いていく。
夕暮れの街を眺めながら、小さく呟いた。
「……平和」
その声は、どこか不思議そうだった。
恒一は静かに椅子へ腰を下ろす。
王都では、常に気を張っていた。
追われ。
警戒され。
騒ぎに巻き込まれた。
だが、この街は違う。
暖かな料理の匂いがして。
笑い声が聞こえて。
人が自然に笑っている。
それだけのことなのに。
妙に落ち着いた。
ギルドの狐耳受付嬢も。
この宿の看板娘も。
どこか抜けていて、騒がしくて、変に距離が近い。
けれど。
悪意がない。
だからだろうか。
この街に来てから、肩の力が少し抜けていることに、恒一は気づいていた。
「……数日くらいなら、悪くないか」
恒一が呟く。
すると。
リリスが、こくりと頷いた。
「うん」
その返事が、少し嬉しそうだった。
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