第十三話:王都を出て、旅が始まった件
それから数日が経った。
王都 《エルドリア》の騒ぎは、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
市場には人が戻り、通りには荷馬車が行き交い、冒険者ギルドにもいつもの喧騒が戻っている。
もちろん、完全に元通りになったわけではない。
正体不明の巨大な魔力。
その噂は、まだ街のあちこちで囁かれていた。
だが、兵士が走り回るような空気は消えた。
少なくとも、今なら街を歩ける。
恒一は宿の部屋で、窓の外を眺めながらそう判断した。
「……行くか」
小さく呟く。
椅子に座っていたリリスが、すぐに顔を上げた。
「どこに?」
「王都を出る準備だ。その前に、世話になった人たちへ挨拶してくる」
「リリスも行く」
即答だった。
恒一はリリスの姿を見る。
巨大な魔女帽子。
黒薔薇と歪な十字飾り。
漆黒のドレス。
腕には壊れた黒い人形。
どう見ても目立つ。
しかも、あの日。
魔力を漏らした瞬間を見た人間がいる。
もし誰かが、黒い魔女姿の少女を覚えていれば。
通りを歩いた瞬間、気づかれる可能性があった。
「……その服、着替えられるか?」
恒一が尋ねると、リリスは少し首を傾げた。
「この服?」
「ああ。目立つ」
「だめ」
リリスは人形を抱き締める。
「これは特別製なの」
「特別製?」
「リリスの魔力を抑えるための服。これを脱いだら、魔力が一気に外へ出るかもしれない」
恒一は黙った。
「草とか、花とか、枯れるかも。近くにいる人も、苦しくなるかも」
「……なるほど」
着替えさせる案は消えた。
目立つ服を着たまま歩くのも危険。
脱がせても危険。
つまり。
「王都では歩けないな」
「……ごめんなさい」
「責めてない」
恒一は外套を羽織る。
「俺だけで行ってくる。すぐ戻る」
その瞬間、リリスの表情が固まった。
「……お父様」
「なんだ」
「本当に、それだけ?」
声が震えていた。
「また、リリスを置いてどこかに行かない?」
泣きそうな顔だった。
恒一は一瞬、返答に詰まる。
もしここでリリスを置いて逃げたら。
この少女はどうなるのか。
泣くのか。
怒るのか。
それとも、世界を壊すのか。
想像したくなかった。
「行かない」
恒一は静かに言った。
「少し挨拶して、戻ってくる。それだけだ」
「本当?」
「ああ。だから、ここで待っててくれ」
リリスはしばらく恒一を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……待ってる」
「いい子だ」
恒一はそう言って、リリスの頭に手を置いた。
リリスの表情が、少しだけ和らぐ。
「早く帰ってきてね」
「ああ」
恒一は部屋を出た。
扉を閉める直前。
リリスが、まだ不安そうにこちらを見ていた。
恒一は短く息を吐く。
この少女を置いて逃げるという選択肢は、最初から存在しない。
少なくとも今は。
◇ ◇ ◇
最初に向かったのは、職人街だった。
グラムベルの鍛冶屋。
扉を開けると、いつものように熱気と鉄の匂いが押し寄せてくる。
奥では、ティナ・グラムベルが作業台に向かっていた。
銀色の短髪。
煤で汚れた黒いエプロン。
小柄な身体には不釣り合いなほど巨大なハンマー。
彼女は恒一を見るなり、眉を寄せた。
「なんだ。また装備でも壊したか」
「いや」
恒一は店内へ入る。
「王都を出ることにした」
ティナの手が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに何事もなかったように作業へ戻る。
「ふん。そうか」
「ああ。だから、一応挨拶に来た」
「律儀なやつだな」
ティナは鼻を鳴らした。
「お前がいなくなって、こっちはせいせいする」
「そうか」
「毎回毎回、面倒な顔で来られるとこっちまで気が滅入るからな」
「悪かったな」
「本当にな」
ぶっきらぼうな言葉だった。
だが、以前のような刺々しさはなかった。
恒一は少しだけ笑う。
「世話になった」
「別に、仕事をしただけだ」
ティナは作業台の端に置いてあった革紐を手に取り、恒一へ投げた。
「持っていけ」
「これは?」
「ナイフの鞘を固定するための紐だ。今のままだと歩いているうちにずれる」
「いいのか」
「余り物だ」
恒一は革紐を受け取った。
「ありがとう」
「……ふん」
ティナはそっぽを向く。
それから、少し間を置いて言った。
「また戻ってくるなら、その時は装備を見せろ」
「修理か?」
「違う」
ティナはちらりと恒一を見る。
「お前に合った武器くらい、作ってやる」
恒一は少し目を瞬かせた。
「……いいのか?」
「気が向いたらな」
「そうか」
恒一は短く頷いた。
「じゃあ、その時は頼む」
「死なずに戻ってきたらな」
「善処する」
「善処じゃなくて生きろ」
ティナはぶっきらぼうに言った。
恒一は少しだけ笑い、店を出た。
扉が閉まる直前。
「……気をつけろよ」
そんな声が、背中に届いた気がした。
◇ ◇ ◇
次に向かったのは、冒険者ギルドだった。
ギルド内はいつも通り騒がしい。
依頼掲示板の前には冒険者が集まり、酒場側では昼間から飲んでいる者もいる。
受付にいたミレイナ・クラウベルが、恒一に気づいて顔を上げた。
「コウイチ様。今日は依頼ですか?」
「いや。王都を出ることにした」
ミレイナの表情が少し変わった。
驚き。
そして、納得。
その両方が混ざった顔だった。
「そうですか。冒険者ですから、街を出ること自体は珍しくありませんが……急ですね」
「色々あってな」
「でしょうね」
ミレイナは深く聞かなかった。
そのあたりの距離感が、ありがたかった。
「王都から離れるなら、気をつけてください。近郊ならまだ安全ですが、街道を外れると魔物の強さが一段変わります」
「ああ」
「それと、宿場町を結ぶ街道でも、盗賊が出る地域があります。夜間の移動は避けた方がいいです」
「覚えておく」
ミレイナは少し考えたあと、尋ねた。
「これから向かう場所の当てはあるんですか?」
「まだ決めてない」
「そうですか……」
ミレイナは受付の下から、筒状に丸められた羊皮紙を取り出した。
「でしたら、これを見ておくといいかもしれません」
広げられたのは、世界地図だった。
西大陸。
東大陸。
海峡。
王国。
帝国。
聖国。
島々。
恒一がまだ知らない地名が、びっしりと書き込まれている。
「これは……」
「《エーテラ》の大陸の全図です。旅をする冒険者向けのものですね。高精度ではありませんが、大まかな位置関係を掴むには十分です」
「高そうだな」
「通常ならそれなりにしますが、冒険者ギルド所属の方なら格安で購入できます」
「いくらだ」
「銀貨五枚です」
思ったより安い。
恒一は少し考え、すぐに銀貨を出した。
「買う」
「ありがとうございます」
ミレイナは地図を丁寧に巻き直し、革紐で留めた。
「迷った時は、大きな街道を選んでください。無理に近道をしようとすると、大抵ろくなことになりません」
「実感がこもってるな」
「何人も見てきましたから」
ミレイナは少し笑った。
恒一は地図を受け取る。
「色々世話になった。ありがとう」
「こちらこそ。コウイチ様は、地味な依頼でもきちんとこなしてくださる方でしたので、助かっていました」
「褒めてるのか?」
「もちろんです」
ミレイナは柔らかく微笑む。
「どうか、ご無事で」
「ああ」
恒一は軽く頭を下げ、ギルドを出た。
手には地図。
腰にはナイフ。
背には外套。
王都に来たばかりの頃よりは、少しだけ冒険者らしくなっている。
そう思うと、少しだけ苦笑した。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、部屋の扉の前で一瞬だけ足を止めた。
中から物音はしない。
静かだった。
「リリス」
扉を開ける。
次の瞬間。
椅子に座っていたリリスの顔が、ぱっと明るくなった。
「お父様!」
リリスは椅子から飛び降り、恒一の方へ駆け寄る。
今回は、抱きつく寸前で止まった。
どうやら、街中で飛びつくなという言葉を覚えていたらしい。
「待ってた」
「ああ。待たせたな」
「帰ってきた」
「帰ってきた」
リリスは嬉しそうに笑った。
その顔を見ると、恒一はまた少しだけ頭が痛くなる。
懐かれすぎている。
だが、ここで突き放す選択肢はない。
「準備はできてるな?」
「うん」
リリスは人形を抱き直す。
荷物らしい荷物はほとんどない。
彼女にとって必要なものは、この人形と、この服だけなのだろう。
恒一は自分の荷物をまとめた。
黒いノート。
地図。
金貨と銀貨。
最低限の着替え。
ナイフ。
外套。
革鎧。
少ない。
だが、今の自分にはこれで十分だった。
◇ ◇ ◇
一階へ降りると、コレットが待っていた。
最初から、こうなることをわかっていたような顔だった。
「……本当に行くんですね」
「ああ」
恒一は頷く。
「世話になった」
「それ、もう何回も聞きました」
「そうか」
「はい」
コレットは少しだけ笑った。
だが、耳は寂しそうに下がっている。
「リリスちゃんも、気をつけてくださいね」
リリスは恒一の服の裾を掴んだまま、こくりと頷いた。
「うん」
「コウイチさんを困らせすぎちゃだめですよ」
「困らせてない」
「もう困らせてる気がしますけど……」
コレットが苦笑する。
恒一は否定できなかった。
その時、厨房の奥からコレットの母親も顔を出した。
「行くのかい」
「ああ。世話になりました」
「また戻ってきな。生きてりゃ、部屋くらい空けてやるよ」
「助かる」
「それと、飯はちゃんと食べな。あんた、放っておくとすぐ変な顔になるからね」
「変な顔……」
コレットがくすりと笑った。
恒一は小さく息を吐く。
どうにも、この宿では最後まで締まらない。
「コウイチさん」
コレットが改めて言った。
「頑張ってください」
「ああ」
「それと……また、帰ってきてくださいね」
恒一は少しだけ黙った。
そして、短く答える。
「戻ってくる」
コレットの表情が、少しだけ明るくなった。
「はい。待ってます」
恒一は頷き、宿の扉へ向かう。
リリスが隣についてくる。
外へ出る直前。
コレットがもう一度、手を振った。
「いってらっしゃい!」
その言葉に、恒一は一瞬だけ足を止めた。
いってらっしゃい。
ここに帰る場所がある人間に向ける言葉。
異世界に来てから、そんな言葉を聞くとは思わなかった。
「……行ってくる」
そう返して、恒一は扉を開けた。
◇ ◇ ◇
人目の少ない路地へ入ると、恒一は足を止めた。
王都の門は、いつもより少しだけ警備が厳しい。
出ていく者を細かく調べているわけではないが、リリスの姿はどうしても目立つ。
あの服のまま人混みに紛れるのは危険だった。
「……やっぱり、門は無理だな」
恒一が言うと、リリスがこてんと首を傾げた。
「転移する?」
「できるのか?」
「うん」
あっさり答えた。
恒一は少し眉を上げる。
「じゃあ、適当な街まで飛べるか?」
その瞬間。
リリスは小さく首を横に振った。
「一人ならできる」
「……俺がいると無理か」
「うん」
リリスは申し訳なさそうに人形を抱き締めた。
「転移って、すごく危ないの。リリスは慣れてるから平気だけど、他の人を連れて遠くに飛ぶと、その人の身体を壊れないように守らなきゃいけない」
「身体を守る?」
「魔力で包むの。ちゃんとやらないと、途中で身体が裂けたり、変な場所に埋まったりする」
さらっと恐ろしいことを言われた。
恒一は思わず黙る。
「近い場所なら大丈夫。でも、遠い場所ほど難しい」
リリスは指をぎゅっと握る。
「お父様を傷つけたくない」
リリスは、ぽつりと言った。
その声は、ひどく真剣だった。
恒一は小さく息を吐く。
少し前、リリスは自分を探すために、いくつもの街を転移で渡り歩いたと話していた。
だから恒一は、転移というものをもっと気軽な移動手段のように考えていた。
だが、どうやら違う。
一人で飛ぶのと、誰かを連れて飛ぶのでは、まったく別の技術らしい。
まして、長距離となればなおさらだ。
便利だからと安易に使わせていいものではない。
「……わかった」
恒一は頷いた。
「無理はしなくていい。遠くへ飛ぶ必要はない」
「うん」
「ただ、王都の中をこのまま歩くのは危険だ。門を抜けるまでの距離だけ、どうにかできるか?」
リリスは少し考えてから、こくりと頷いた。
「それくらいなら大丈夫。近いから」
「じゃあ、王都の外までだけ頼む」
「わかった」
リリスは少し安心したように頷いた。
「近いから、お父様も壊れない」
「壊れないって言い方やめろ」
「でも、本当に壊れる人いるよ?」
「聞きたくなかったな……」
リリスはきょとんとしてから、少しだけ笑った。
「大丈夫。リリス、失敗しない」
その言葉は、妙に頼もしくて。
同時に、少し怖かった。
「目を閉じて」
リリスが言う。
恒一は素直に従った。
次の瞬間。
ぞわり、と。
空気が揺れた。
重力が一瞬だけ歪むような感覚。
耳鳴り。
そして、風。
「……っ」
恒一が目を開ける。
そこは、王都から少し離れた街道脇の草原だった。
遠く後方に、《エルドリア》の巨大な城壁が見える。
かなり距離がある。
だが、まだ視認できる程度には近い。
「ここなら大丈夫」
リリスが恒一の服の裾を掴みながら言った。
「王都の中から見えない場所」
「便利だな……」
「えへへ」
褒められたと思ったのか、リリスが少し得意そうに笑う。
恒一は周囲を見回した。
草原。
街道。
遠くの森。
頭上には青空。
王都の喧騒は、もうほとんど聞こえない。
ようやく、本当に外へ出たのだと実感する。
恒一は足を止め、振り返った。
王城の尖塔が、遠くに見える。
自分を勝手に召喚し。
役に立たないと切り捨てた場所。
そして、少しだけ暮らした街。
思うことがないわけではない。
だが、未練は少なかった。
「お父様」
リリスが隣で見上げてくる。
「どこに行くの?」
恒一は手にした地図を広げた。
まだ、目的地はない。
どこへ行くべきかもわからない。
だが。
立ち止まっているよりはいい。
「まずは、王都から離れる」
「うん」
「その先は、歩きながら考える」
「リリスも一緒に考える」
「頼む」
リリスは嬉しそうに頷いた。
恒一は地図を丸め、外套を揺らして歩き出す。
隣には、災厄の魔女と呼ばれた少女。
内ポケットには、世界を書き換える黒いノート。
どこにでもいるはずだった三十八歳の社畜は。
今、異世界の街道を歩いている。
普通に生きるために。
普通ではないものを抱えたまま。
佐藤恒一の旅が、始まった。
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