第十一話:災厄の魔女と目が合ったら、なぜか娘ができた件
目が合った瞬間。
恒一は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
通りの向こう。
人混みの隙間。
黒紫の長髪を揺らした少女が、こちらを見ていた。
巨大な魔女帽子。
黒薔薇と歪な十字飾り。
漆黒のドレス。
腕には、壊れた黒い人形。
明らかに、普通ではない。
だが、周囲の人々は特に気にしていなかった。
少し変わった服装の少女。
せいぜい、その程度の認識なのだろう。
恒一も最初はそう思った。
ただ妙な格好をした子どもだと。
だが。
少女の琥珀色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。
次の瞬間。
その表情が、くしゃりと歪む。
泣きそうな。
笑いそうな。
壊れそうなほど、嬉しそうな顔だった。
「……お父様」
小さな声だった。
だが、恒一の耳にははっきり届いた。
「お父様……!」
少女が走り出す。
人混みの中を、一直線に。
まるで、何年も何十年も探し続けたものへ飛び込むように。
「ちょ――」
恒一が声を出すより早く。
少女は、そのまま恒一の腹へ抱きついた。
「お父様っ!」
「……っ」
細い腕が、ぎゅっと恒一に回される。
小さな身体。
軽いはずなのに。
その抱擁には、異様な熱があった。
「やっと……やっと見つけた……!」
少女は恒一に顔を埋めたまま、震える声で呟く。
「ずっと、ずっと探してたの……お父様……!」
その瞬間だった。
ぞわり、と。
空気が震えた。
恒一の肌が粟立つ。
少女の身体から、何かが漏れ出した。
目には見えない。
だが、わかる。
魔力だ。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
少女にとっては、感情が昂ったせいで少し零れただけだったのかもしれない。
だが。
周囲の反応は、明らかだった。
「な、なんだ……?」
「今の、魔力か?」
「おい、誰だ……」
通行人たちが足を止める。
冒険者らしき男が顔色を変える。
近くの馬が怯えたように鳴き、荷馬車の車輪が軋んだ。
市場の喧騒が、一瞬で薄くなる。
恒一は理解した。
まずい。
これはまずい。
この少女が何者かはわからない。
だが、今の魔力量は明らかに普通ではない。
こんなものを王都のど真ん中で放てば、嫌でも目立つ。
兵士が来る。
ギルドが動く。
王城の耳に入る。
そうなれば、面倒どころでは済まない。
「……おい」
「お父様……?」
少女が潤んだ瞳で見上げてくる。
恒一は一瞬だけ迷い。
すぐに決断した。
「話は後だ」
「え?」
「ここは目立つ」
恒一は少女を抱き上げた。
見た目通り、軽い。
少女は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに恒一の首へ腕を回した。
「お父様が、抱っこしてくれた……」
「静かにしてろ」
「うん」
素直だった。
怖いくらいに。
恒一は周囲の視線を避けるように、足早に歩き出した。
走りたい。
だが、走れば余計に目立つ。
だから、できるだけ自然に。
それでいて、可能な限り早く。
人混みを抜け、路地へ入り、宿の方向へ向かう。
腕の中の少女は、ずっと恒一を見上げていた。
まるで、少しでも目を離せば消えてしまうとでも思っているように。
◇ ◇ ◇
「コウイチさん!?」
宿に戻るなり、コレットが目を丸くした。
恒一の腕の中に、見知らぬ少女がいる。
しかも、どう見ても普通の服装ではない。
驚くなという方が無理だった。
「その子、どうしたんですか!?」
「拾った」
「拾った!?」
「正確には、抱きつかれた」
「余計にわかりません!」
コレットの耳がぴんと立つ。
恒一は周囲を確認した。
幸い、食堂に客は少ない。
コレットの母親も奥にいるらしく、今は見えなかった。
「部屋を使う。少し話を聞く」
「あ、はい……」
コレットは戸惑いながらも頷いた。
恒一は少女を抱えたまま階段を上がり、自室へ入る。
扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
少女を椅子に座らせる。
だが少女は、恒一の服の裾を離さなかった。
「……まず、名前を聞いていいか」
恒一が尋ねると、少女はこくりと頷いた。
「リリス」
「リリス?」
「リリス・ノクスフィール」
その名を聞いた瞬間。
恒一の思考が、わずかに止まった。
知らない名前だ。
だが、少女の格好。
先ほど漏れた尋常ではない魔力。
そして、自分を”お父様”と呼ぶ言葉。
嫌な予感が、形になっていく。
「……まさか」
恒一は慎重に言った。
「君は、《災厄の魔女》なのか?」
リリスは少しだけ首を傾げた。
「みんなは、そう呼ぶ」
あまりにもあっさりとした答えだった。
恒一は黙った。
心臓が、嫌な音を立てている。
《災厄の魔女》。
国を滅ぼすかもしれない存在。
コレットが語っていた、おとぎ話のような怪物。
それが今、自分の部屋にいる。
しかも、自分を父親だと思い込んでいる。
恒一は一瞬、内ポケットのノートを意識した。
自分が書いた。
自分が仕込んだ。
伝承に余白を作り。
記憶を厚くした。
そして今、その結果が目の前に座っている。
「お父様」
リリスは恒一を見上げた。
「やっと、会えた」
その声は、幼い。
だが、込められた感情は重すぎた。
「ずっと、探してたの。ずっとずっと。どこの街にもいなくて、どこの森にもいなくて、でも、絶対にいるってわかってた」
「……」
「リリスね、お父様の顔、ちゃんと思い出せなかった。声も、ぼんやりしてた。でも、わかるの。会えば絶対にわかるって」
少女は壊れた人形を抱き締める。
「だって、お父様だけだったから」
「何がだ」
「リリスを、怖がらなかった人」
恒一は息を止めた。
リリスは、ぽつぽつと語り始める。
「みんな、リリスを見ると怖がった。魔力が多すぎるから。近くにいるだけで、花が枯れたり、空気が冷たくなったりしたから」
小さな指が、人形の頭を撫でる。
「リリスは、ずっと子どものままだった。何年経っても、何十年経っても、身体が大きくならなかった。みんな、不気味だって言った。化け物だって。災厄だって」
淡々とした声だった。
だが、だからこそ痛々しかった。
「でも、お父様だけは違った」
リリスの瞳が、柔らかく揺れる。
「隣に座ってくれた。話しかけてくれた。怖がらなかった。リリスを、普通の子みたいに見てくれた」
普通の子。
その言葉が、妙に重く響いた。
「本当の娘みたいに、頭を撫でてくれた。名前を呼んでくれた。リリスって」
「……」
「だから、リリスはお父様を探してたの」
リリスは顔を上げる。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐ恒一を見ていた。
「もう、どこにも行かないで」
その瞬間。
恒一は、はっきり理解した。
この少女を敵に回してはいけない。
先ほど街で漏れた魔力。
あれは、ほんの少しだった。
感情が揺れた拍子に零れただけ。
それで、街の空気が変わった。
なら、もし本気で敵意を向けられたら。
恒一は、即死する。
宿どころか、王都ごと危ないかもしれない。
だから。
ここで下手なことは言えない。
だが、合わせすぎるのも危険だった。
リリスが語る”お父様”像と、自分がずれれば。
記憶に違和感が生まれるかもしれない。
そして、その違和感の先にノートの存在を疑われれば、終わりだ。
恒一は、ゆっくり息を吐いた。
「リリス」
「うん」
「……ごめん」
少女の表情が、ぴくりと揺れた。
恒一は慎重に言葉を選ぶ。
「君の話を聞いていると、その”お父様”は、自分のことなんだと思う」
「うん。お父様だよ」
「でも、俺にはその時の記憶がない」
リリスの瞳が揺れた。
恒一は続ける。
「君に会った記憶も。君と過ごした記憶も。君の頭を撫でた記憶も。今の俺には、思い出せない」
「……忘れちゃったの?」
小さな声。
泣きそうな声だった。
恒一は首を横に振る。
「忘れた、というより……抜け落ちている感じだ」
「抜け落ちてる……?」
「俺も、この世界に来てからわからないことが多い。自分でも知らないことがある。だから、君の話を否定するつもりはない」
ここで否定してはいけない。
受け入れすぎてもいけない。
曖昧に。
けれど、優しく。
「記憶はない。けど」
恒一はリリスを見た。
「君と出会うのが、これが初めてだとも思えない」
リリスが息を止めた。
「本当?」
「ああ」
嘘だった。
いや、完全な嘘とも言い切れなかった。
自分で作った記憶のせいか。
彼女の話を聞いているうちに、妙に胸が痛んでいた。
誰にも愛されなかった少女。
膨大な魔力を恐れられ、長い時間を一人で過ごした少女。
そんな存在が、自分を父と呼んでいる。
利用するために作った設定のはずなのに。
その孤独だけは、本物に見えた。
「だから、たぶん」
恒一は静かに言った。
「どこかで、俺たちは繋がっているんだろう」
「繋がってる……」
「ただ、今の俺には昔のことが思い出せない。だから、昔の続きをそのままやるのは難しい」
リリスの手が、ぎゅっと人形を握る。
「じゃあ……リリスは……」
「だから」
恒一は言葉を重ねた。
「もう一度、最初から作らないか」
リリスが顔を上げる。
「最初から?」
「ああ。昔の記憶が曖昧なら、今から新しく積み重ねればいい」
恒一は、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。
「親子みたいな関係を、また一から作っていこう」
リリスはしばらく黙っていた。
その瞳が、揺れている。
不安。
期待。
喜び。
執着。
いくつもの感情が、幼い顔の中で混ざっていた。
「……リリスも」
やがて、少女は小さく言った。
「昔のこと、あんまり覚えてない。お父様の顔も、声も、ちゃんとは思い出せなかった」
「そうか」
「でも、会えばわかるって思ってた。だから、わかった」
リリスは恒一を見つめる。
「えっ〜と、その、お父様って、呼んでもいい?」
恒一は少しだけ間を置いた。
ここで拒めば終わる。
いや。
拒む理由も、もうなかった。
「いいよ」
リリスの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当?」
「ああ。ただし」
「ただし?」
「街中で急に飛びついたり、魔力を漏らしたりするのはやめてくれ」
リリスは一瞬きょとんとし。
それから、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……さっき、漏れてた?」
「かなりな」
「ごめんなさい。嬉しくて」
「次から気をつければいい」
「うん。気をつける」
素直だった。
拍子抜けするほど。
リリスは椅子から降りると、恒一のそばへ寄った。
そして、そっと彼のコートの裾を掴む。
「お父様」
「なんだ」
「もう、いなくならない?」
恒一は答えに詰まりかけた。
だが、すぐに言った。
「少なくとも、黙って消えるつもりはない」
リリスはそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「うん」
その笑顔は、普通の少女のようだった。
少なくとも、一瞬だけは。
◇ ◇ ◇
こうして。
国を滅ぼすほどの魔力を持つと恐れられ。
世界中で《災厄の魔女》と呼ばれていた少女。
リリス・ノクスフィールは。
佐藤恒一の前で、ただ一人の迷子の娘のように笑っていた。
恒一は内心で、冷や汗をかいていた。
敵に回せば終わる。
扱いを間違えても終わる。
記憶の違和感に気づかれても終わる。
だが同時に。
彼女が味方でいる限り、これほど心強い存在もいない。
恒一は、静かに息を吐いた。
どうするべきか。
どう扱うべきか。
何を言い、何を言わないべきか。
考えることは山ほどある。
けれど、今は。
「……腹は減ってるか?」
そう尋ねた。
リリスは目を瞬かせる。
そして、小さく頷いた。
「少し」
「なら、飯にするか」
「うん」
リリスは嬉しそうに、恒一の服の裾を握り直した。
「お父様と、ご飯」
その声は、ひどく幸せそうだった。
恒一は苦笑しながら、扉へ向かう。
こうして。
彼の”普通に生きる”日常に。
災厄の魔女が、当たり前のように入り込むことになった。
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