幕間五:伝説たちが、それぞれ動いている件
山岳地帯の麓にある小さな宿場町。
古びた宿の一室で、エルシア・ルーンフェルトは机の上に地図を広げていた。
そこに描かれているのは、この世界 《エーテラ》の大陸の全図。
西大陸。
東大陸。
海峡。
王国。
帝国。
聖国。
島々。
数えきれないほどの地名が、古い羊皮紙の上に刻まれている。
「師匠」
エルシアは地図へ視線を落としたまま、静かに言った。
「その昔馴染みという方は、黒髪で、この世界とは異なる文化圏の人物だったのですよね」
「うむ。そんな気がするのう」
部屋の隅で酒瓶を抱えていた小柄な鬼人の少女が、のんびりと頷く。
エルシアが師と仰ぐ存在。
見た目だけなら幼い少女にしか見えない。
だが、その瞳には長い年月を生きた者だけが持つ、底の見えない深さがあった。
「でしたら、今いる西大陸にいる可能性は低いかもしれません」
「ほう?」
師匠が片眉を上げる。
エルシアは地図の東側へ指を滑らせた。
「黒髪という特徴。そして、異なる文化圏の人物。西大陸よりも東大陸側を探した方が、手掛かりを得られる可能性があります」
「東か」
「はい。少なくとも、ただ西大陸を歩き回るよりは合理的です」
師匠は地図をじっと見つめた。
だが、何かを思い出す様子はない。
黒髪。
異国の空気。
変わった服。
聞き馴染みのない妙な言葉。
断片だけはある。
だが、肝心の場所がない。
どこで出会ったのか。
どこを共に旅したのか。
どこで別れたのか。
霧がかかったように、思い出せない。
「……まあ、よかろう」
師匠は酒瓶を軽く揺らした。
「西でわからんなら、東へ行けばよい」
「では、海峡を越えますか」
「うむ。久しぶりの船旅も悪くないのう」
エルシアは静かに頷いた。
こうして、二人の進路は決まった。
まだ見ぬ昔馴染みを探して、東大陸へ。
もっとも。
その昔馴染みは今、西大陸の王都でのんびり夕飯を食べようとしているのだが。
二人はまだ、知らなかった。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
リリス・ノクスフィールは、いくつもの街を渡り歩いていた。
歩く、と言っても。
彼女にとって、それは人間の旅とは違う。
影から影へ。
路地裏から路地裏へ。
誰にも見られない場所で空間を裂き、街から街へと移動する。
転移魔法。
人間の魔術師なら一生を費やしても届かない領域の術を、リリスは息をするように使っていた。
北方の交易都市。
山間の宿場町。
辺境の市場。
港町。
古い城下町。
いくつもの場所を訪れた。
だが、見つからない。
探している人の顔は思い出せない。
声も、はっきりとは思い出せない。
けれど、会えばわかる。
その確信だけを胸に、リリスは街を歩き続けた。
魔力は極限まで抑えている。
草は枯れない。
空気も凍らない。
人々は彼女を見ても、少し首を傾げるだけだった。
変わった服の子ども。
奇妙な人形を抱いた少女。
せいぜい、その程度の認識。
それでよかった。
誰も怖がらせたくない。
誰も傷つけたくない。
リリスは、ただ一人を探しているだけだった。
「……お父様」
壊れた黒い人形を抱き締める。
胸の奥が、じくじくと痛む。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
それだけが、彼女を動かしていた。
◇ ◇ ◇
ヴァルクレスト王国の、とある地方都市。
人の多い通りの片隅に、リリスは音もなく現れた。
市場の喧騒。
荷馬車の音。
焼き菓子の匂い。
人々の笑い声。
リリスはそのすべての中を、静かに歩く。
目を凝らす。
気配を探る。
記憶の奥にある、曖昧な影を探す。
けれど。
いない。
どこにも、いない。
「……ここにも、いない」
小さく呟く。
なら、次の街へ行く。
そう思い、路地裏へ向かおうとした時だった。
近くの冒険者たちの会話が、耳に入った。
「聞いたか? 王都に勇者様が現れたってよ」
「ああ。黒髪の勇者様だろ?」
黒髪。
その言葉に、リリスの足が止まった。
「王城にいるんだろ? 一目見てみてぇなぁ」
黒髪。
異国。
勇者召喚。
リリスの胸の奥で、何かが震えた。
「……王都」
次の瞬間。
リリスの姿は、路地裏の影へ溶けるように消えていた。
◇ ◇ ◇
王都。
その中心にそびえる王城へ、リリスは誰にも気づかれず入り込んだ。
隠密魔法を自身にかける。
姿も。
気配も。
魔力の匂いも。
すべてを薄くする。
すれ違う兵士たちは、誰一人としてリリスに気づかない。
彼女は静かに廊下を進み、勇者がいるという場所へ向かった。
そして。
見た。
黒髪の少年を。
天城ハルト。
王城の訓練場で、木剣を振るっている少年。
確かに黒髪だった。
この世界の者とは違う空気もある。
だが。
「……違う」
リリスはすぐに理解した。
胸が震えない。
心が叫ばない。
この人ではない。
お父様ではない。
念のため、他の勇者たちも見た。
けれど、違う。
王城の中も探した。
黒髪の者がいないか。
異国の空気を持つ者がいないか。
けれど、誰を見ても違った。
「……ここじゃ、ない」
リリスは王城を出た。
それでも、すぐには諦めなかった。
王都の街を歩く。
大通り。
市場。
宿屋街。
冒険者ギルドの周辺。
人の流れを見つめる。
黒髪を探す。
あの人の影を探す。
けれど、見つからない。
日が傾き始める。
夕暮れの光が、王都の街並みを橙色に染めていく。
「……次の街に、行こうかな」
リリスは人形を抱き直した。
また別の場所へ。
また別の街へ。
そう思った、その時だった。
◇ ◇ ◇
通りの向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒い髪。
疲れたような目。
この世界の者とは少し違う、どこか浮いた空気。
派手な鎧もない。
勇者のような輝きもない。
英雄のような迫力もない。
ただ、どこにでもいそうな男だった。
けれど。
リリスは、動けなくなった。
胸の奥が、熱くなる。
息が詰まる。
壊れた人形を抱く手に、力がこもる。
男が、ふと足を止めた。
こちらを見る。
通りの向こう。
人混みの隙間。
二人の視線が、重なった。
琥珀色の瞳が、静かに見開かれる。
顔は思い出せない。
声も思い出せない。
けれど。
そんなものは、もう必要なかった。
心が、魂が、叫んでいた。
この人だ。
この人が。
ずっと探していた――お父様だ。
面白いと感じましたら、ブクマ、評価、コメント等をよろしくお願いします。




