幕間三:伝説たちが大昔の記憶を思い出した件
北方の交易都市。
昼下がりの石畳を、一人の少女が歩いていた。
黒紫の長髪。
大きな魔女帽子。
黒薔薇と歪な十字飾りが絡みついた漆黒のドレス。
腕には、壊れた黒い人形。
少女の名は、リリス・ノクスフィール。
だが世界は、彼女を名前で呼ばない。
《災厄の魔女》。
それが、人々が彼女へ与えた呼び名だった。
もっとも、今のリリスを見て、その名を思い浮かべる者はいない。
道行く人々は、ちらりと少女を見る。
変わった服装の子どもだ。
どこかの貴族の娘だろうか。
そんな程度の視線を向けて、すぐに通り過ぎていく。
草は枯れない。
空気も凍らない。
魔物が怯えて逃げ出すこともない。
リリスは、膨大すぎる魔力を極限まで抑え込んでいた。
誰かを傷つけないために。
周囲へ影響を与えないために。
かつて世界を彷徨い、行く先々で恐れられた少女は、長い時間をかけて、自分の力を閉じ込める術を覚えた。
そして数日前。
廃都の塔で、思い出した。
自分には、探さなければならない人がいるのだと。
「……お父様」
小さく呟く。
その声は、熱を帯びていた。
黒い髪の男。
この世界の者とは違う、不思議な空気をまとった男。
顔は思い出せない。
声も、はっきりとは思い出せない。
長い時間が経ちすぎた。
けれど。
その人だけは、リリスを怖がらなかった。
魔力を見ても、逃げなかった。
化け物とも。
災厄とも呼ばなかった。
ただ当たり前のように隣へ座り。
当たり前のように話しかけ。
当たり前のように、リリスを一人の少女として見た。
――まるで、本当の娘みたいに。
リリスは、ずっと愛されたかった。
普通の子どものように、名前を呼ばれたかった。
頭を撫でられたかった。
笑いかけてほしかった。
けれど、誰もそうしなかった。
膨大すぎる魔力。
老いることのない身体。
何十年、何百年経っても変わらない幼い姿。
人々は彼女を恐れた。
化け物と呼んだ。
災厄と呼んだ。
近づく者は皆、恐怖か欲望を目に浮かべていた。
けれど。
あの人だけは、違った。
『リリス』
ふいに。
頭の奥で、誰かの声が響いた気がした。
優しい声だった。
懐かしい声だった。
リリスは足を止める。
胸の奥が、痛かった。
恋しい。
苦しい。
会いたい。
なぜ今まで忘れていたのか、わからない。
なぜ顔を思い出せないのかも、わからない。
それでも、心だけは確かに覚えていた。
あの人だけは、自分を愛してくれた。
あの人だけは、自分を見てくれた。
だから。
探さなければならない。
どこにいても。
何を踏み越えてでも。
「待っててね、お父様」
リリスは人形を抱き締めた。
恍惚とした笑みが、ゆっくりと広がる。
「今すぐ……会いに行くから」
少女は再び歩き出した。
市場の喧騒の中を。
人々の間をすり抜けながら。
顔も思い出せない父親を探して。
それでも、会えば必ずわかるという確信だけを胸に抱いて。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
山岳地帯を抜ける街道を、二つの影が歩いていた。
一人は、白銀の髪を持つエルフの剣士。
《白銀の剣聖》エルシア・ルーンフェルト。
透き通る青い瞳。
白と蒼を基調とした軽装鎧。
歩き方一つにすら隙がない。
その立ち姿は、美しいというより、研ぎ澄まされた一振りの剣のようだった。
そして、もう一人。
小柄な鬼人の少女。
銀白色の髪を無造作に結い、額には二本の角。
和装を崩したような旅装に、酒瓶を片手にぶら下げている。
見た目は幼い。
だが、その瞳だけは違った。
長い年月を生き、数えきれない死線を越えてきた者だけが持つ、底の見えない深さがあった。
彼女こそが、エルシアが師と仰ぐ存在だった。
二人は数日前から、“昔馴染みの男”を探して旅を続けている。
とはいえ、手掛かりは少ない。
どこの誰なのか。
今も生きているのか。
どこへ向かえば会えるのか。
何もわからない。
そんな曖昧な人探しなど、本来なら無謀に近かった。
それでも。
師匠はなぜか、“会えばわかる”と確信していた。
しばらく無言で街道を歩いていた二人だったが、やがて師匠が不意に口を開いた。
「……ああ、思い出した」
エルシアが視線を向ける。
「何をですか?」
「あやつ、黒髪で変な格好をしておったのう」
「変な格好?」
「うむ。見たこともない服を着ておった。この世界の者ではないと、一目でわかるような格好じゃった」
師匠は喉の奥で笑う。
「異国の者だからか、聞き馴染みのない妙なことも、よう言っておったな。意味はまるでわからんかったがのう」
エルシアは少し首を傾げた。
「……そのような変わった方を、師匠はなぜ探したいのですか?」
その問いに、師匠はしばらく黙った。
風が、二人の間を吹き抜ける。
やがて、ぽつりと呟く。
「あやつは、鬼人族のわしを怖がらなかった」
エルシアは静かに耳を傾ける。
「鬼人族というだけで、人は距離を置く。まして、力を持てばなおさらじゃ。恐れる者。媚びる者。利用しようとする者。だいたいは、そのどれかじゃった」
師匠は、遠い記憶を見るように目を細めた。
「じゃが、あやつは違った」
懐かしそうに、笑う。
「わしの力を見ても、態度を変えなんだ。鬼人族だからと特別視することもなく、恐れることもなく、崇めることもなく。ただ、そこにいる一人として扱った」
「……対等に、ですか」
「そうじゃ」
師匠は静かに頷いた。
「焚き火の前で酒を飲みながら、くだらん話ばかりしておった気がする。内容はほとんど覚えておらんが……不思議と、悪い気はせんかった」
エルシアは黙って、その横顔を見つめた。
懐かしそうで。
少し楽しそうで。
けれど、どこか寂しそうだった。
「顔は、思い出せないのですか」
「思い出せん」
師匠はあっさりと言った。
「声も曖昧じゃ。どこで出会い、どこまで旅をしたのかも、霧がかかったようにはっきりせん」
「それでも、会えばわかると?」
「わかる」
即答だった。
エルシアは少し目を見開く。
師匠は前を向いたまま続けた。
「黒い髪。異国の空気。そして、あの目じゃ。目の色だけは、なぜか覚えておる気がする」
「目の色……」
「うむ。それに、あやつは去り際に、わしへ何かを言った」
「何を?」
「それが思い出せん」
師匠は苦笑した。
「ただ、その言葉が妙に引っかかっておる。長い間忘れていたはずなのにのう」
エルシアはしばらく考えたあと、静かに言った。
「ならば、探しましょう」
「ついて来る気か?」
「はい」
「物好きじゃのう」
「師匠の昔馴染みです。興味があります」
師匠は喉の奥で笑った。
「なら、好きにせい」
二人は街道を進む。
目的地は、まだわからない。
男がどこにいるのかも、わからない。
けれど。
師匠の胸には、奇妙な確信があった。
会えば、わかる。
顔も声も思い出せない。
それでも。
あの男に会えば、必ず。
◇ ◇ ◇
その頃。
王都の宿屋では、いつもより少し豪華な昼食が並んでいた。
香草で焼いた肉。
湯気の立つスープ。
柔らかな白パン。
皿の端には、薄く切られた果物まで添えられている。
「勇者様が街に来た特別な日なので!」
コレットはそう言って、誇らしげに胸を張った。
尻尾がぱたぱたと揺れている。
恒一は窓の外を一瞥した。
通りの方から、遠く歓声が聞こえてくる。
勇者たちは、今頃どこかの大通りを歩いているのだろう。
外へ出れば、面倒が起きる可能性がある。
だから恒一は、宿に残った。
残った結果。
なぜか、コレットと向かい合って豪華な昼食を食べていた。
「……うまいな」
「本当ですか?」
「ああ」
コレットの耳がぴんと立った。
「よかったです!」
嬉しそうに笑うその顔を見ながら、恒一はスープを口へ運ぶ。
外では勇者を祝う歓声が響いている。
ここでは、獣人の少女が楽しそうに料理の説明をしている。
平和な昼だった。
少なくとも、恒一にはそう見えた。
自分が書いた記憶が。
誰かの孤独を埋め。
誰かの懐かしさを呼び起こし。
二つの伝説を、静かに動かし始めていることなど。
佐藤恒一は、まだ知らなかった。
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