9 演出
何かを叫び、逃げ出してしまったオリーブの様子に、先ほどまで流れていた緊迫感が跡形もなく霧散した。
(え?オレ、逃げられたの?)
抱き締めたオリーブの身体に力が入ったことに気付き、腕に入れた力を緩めた。痛かっただろうかと思ったのだ。
なのにオリーブは、年上には見えない可愛らしい顔を朱に染めて、脱兎のごとく逃げ出したのだ。
「あの程度で逃げ出すとは──やはりノワールに似合いの令嬢だな。僕の見立ては間違いなかった」
ぽつりと呟いたジェードの言葉にシトロンが問い返す。
「・・・どういう意味だ?」
「え?彼女を見た時、君好みの女性だと思ったから、君に紹介してあげようと思ったんだ。君、ああいった純朴な令嬢が好みなんだろう?侯爵と伯爵──身分も釣り合う。
彼女が独り身である限り、キャナリィ・・・──ウィスタリア侯爵令嬢が気にかける。そうしたら必然的にクラレットも彼女に気を使うことになる。
それに、君がクラレットを好いていないことは重々承知しているが、“クラレットの件”をいつまでも根に持たれるのは気持ちのいいものではないからね。
まぁ、僕が手を出すまでもなく君は彼女に好意を持っている様だったが、いかんせん時間をかけすぎだ。これではクラレットがいつまでも彼女を気にしなければならない」
「ちょっと待て。じゃぁ、そこの男は?」
シトロンがジェードの後ろに控えるガタイの良い男を指さし尋ねる。
「彼は商会の従業員さ。これから商談に向かうのでね」
そこでその男がシトロンに微笑み会釈した。
「──もしかしてこの演出、お気に召さなかったかい?」
「演出?」
「彼女、君のことを男として意識していないようだと聞いたから一芝居うったんだよ。
彼をマルーン嬢に紹介する予定の男だと君たちに誤認させることで、二人とも焦るだろうから、何か進展があるのではないかと思ったんだが・・・効果覿面だったな。
・・・巷で流行っている物語が、こぞってこの演出を取り入れる理由がよく分かったよ」
元は平民の間で流行っていた物語だが、最近貴族の間でも流行り出しているから話題作りのために何冊か読んだんだ──。ジェードがそんなことを言っているが、シトロンの耳には届かない。
「オレが意識されてないなんて・・・なんで知って──」
「あぁ、宿舎の侍女をしている令嬢が教えてくれたよ。僕だってクラレットの関心を取り戻すためなら、笑顔のひとつくらい振りまくさ」
シトロンの脳裏をいつも訓練場で黄色い声援を送ってくる令嬢たちがかすめる。
あいつらがジェードと会話するために情報を流したに違いない。
「機密情報を聞き出した訳じゃないし、問題はないだろう?
さて、僕はもう行くよ。
ノワール、そんなことより彼女を追わなくていいのかい?」
ジェードがオリーブが走り去った方に視線を投げた。
既にその姿は見えなくなっている。
「あ!そうだ、リブ!!」
オリーブを追って駆け出すシトロンの背中を見送り、ジェードは馬車に乗り込んだ。
初めて会った時、オリーブの横顔が悲しそうで気になった。
彼女を試すために名を呼んでいいかと尋ねた時は、マナーがなってないと怒られて、侍女としてやってくる他の令嬢に比べ、きちんと弁えている人なのだと嬉しく思った。
訓練場には足を踏み入れず真面目に職務を果たしている姿に、これまでシトロンが出会ったどの令嬢とも違うのだと確信した。
彼女に話しかけるといつも屈託のない笑顔で迎え入れてくれた。
淹れてくれる紅茶はとても美味しく、彼女との時間はシトロンに癒しを与えてくれた。
シトロンが好意を仄めかすと、真面目な顔をして自身の年齢を告げてきた。シトロンは次期侯爵だ。そんなこと、アプローチをすると決めた日に調べ終えている。
しかしオリーブはまるで、それが枷であるかのように頑なだった。
若さなんかより重要な、シトロンが望むものを持っているのに。
彼女は、それを全くわかっていない。
クラレットとの縁談を考えていると当主である父に言われたとき「感情の起伏が少ないクラレットであれば、お互い熱はなくとも適当に付き合っていける」と考えた。
あれはこの感情を知らなかったから言えた言葉だ。
恋は“落ちる”ものというけれど、明確な“何か”をオリーブに感じたわけじゃない。
だけど、オリーブが淹れた紅茶を一口飲んだ瞬間に、渇いたシトロンの身体に染み渡ったように、出会って言葉を交わしたときに、オリーブという存在がシトロンの心に浸透していたのだ。
だから、いつの間にか受け入れてくれた“リブ”という愛称のように、シトロンも彼女に受け入れられているのだと思っていたのだが──。
シトロンが、まるで心を落ち着けるように無心で掃除をしているオリーブを見つけたのはいつもの談話室だった。
まだ仄かに耳が赤い気がする・・・。
『甘える』のはもうやめだ。
悔しいが、ジェードのおかげでオリーブの攻略法が分かったのだから。
シトロンはオリーブの方へと一歩踏み出した。




