8 逃走
オリーブが宿舎の前庭に向かうと、そこには豪奢な馬車とジェード、そしてどこかヴェルトに似た体格の、オリーブより少しだけ年上であろう男性が立っていた。
応接室に案内すると言う寮執事の言葉を、ジェードは何故か断ったらしい。
彼がオリーブの縁談の相手だろうか。
だとしても、いきなり連れてくるのはあり得ない。
あちらは完璧な身なりで出向いているのに、オリーブが身に付けているのは侍女服で、アクセサリーをつけていなければ、化粧も軽くしかしていないのだ。
いくら相手が公爵令息といえ、このあり得ない状況を断ることも出来ない男などごめんだわと、オリーブは顔には出さずに心の中で思った。
そろそろ現実を見つめないといけないということは分かっている。辺境ならともかく、ここ王都で令嬢が独り生きていくのは難しいことも。
それでも育った環境からか、相愛の人と添い遂げたいとオリーブは望んでしまうのだ。
オリーブが今、この地位と権力を持つ傲慢な公爵令息にどこまで太刀打ちできるかは分からない。
しかし、婚約者の関心が自分以外に向くことが許せないなどという理由で、他人の人生を御そうなどと考える男の思惑通りになってやる筋合いなどないのだ。
公爵令息と辺境を追われた伯爵令嬢──この身分差に、足が震えそうになるのを気力でねじ伏せると、オリーブはジェードの立つ場所に向かって足を進めた。
そして、虚勢を張り満面の笑みを浮かべると、「私、お断りしましたよね」という意味を込めて、不敬になるかならないか一歩手前の嫌味を口にした。
「ごきげんよう、フロスティ様。公爵令息ともあろうお方がこれほどの不調法を働かれるとはどのようなおつもりですか?」
「ごきげんよう、マルーン伯爵令嬢、今日は──「おい、フロスティ!」
「え?」
オリーブには、何が起こったか分からなかった。
恐らくここで負けたら、自分は言葉も交わしたことのないそこの男と結婚しなければならなくなる。
そんな未来、絶対に阻止してみせる──そんな思いでその場に立っていたオリーブの目の前を何かが遮ったのだ。
「──余計なことをするなと言ったはずだ」
それはいつもの彼からは想像も出来ないくらい低い声。
オリーブより少し高い背。
その上下する肩が、彼が走って駆けつけてくれたことを物語っていた。
騎士という職業柄、筋肉は付いているのだろうが辺境の男たちとは比べ物にならない程の細い体躯は、オリーブの前に立ったとしても、完全にジェードからその姿を隠してしまうことは出来なかった。
だというのにこの安心感は何だろう。
いつも自分に甘えてくる弟のような青年が自分を庇い、ジェードと対等に渡り合う姿に、オリーブは泣きそうになってしまった。
それはもちろん安堵からである──
*――*――*
休憩時間になった。
いつも通り、何食わぬ顔でオリーブのもとに行くべきかシトロンは悩んでいた。
オリーブが好む“大きさ”が懐の大きさなどの器を示すものであれば、徐々に路線を変更すればまだ何とか巻き返せるだろうが、体格ばかりはどうにもならない、だからといって彼女を諦めるという選択肢もない。
悩みながらもシトロンが宿舎の方に歩いていくと、前庭に停まる重厚な馬車と三つの人影が見えた。
──嫌な予感がする。
シトロンは走り出した。
近付くと、やはりその人影はオリーブと先日釘を刺したばかりのジェードだった。
ならばもう一人の男がオリーブの縁談の相手──。
シトロンはジェードとオリーブの間に身体を滑り込ませると、何かを言いかけたジェードを遮った。
「おい、フロスティ!──余計なことはするなと言ったはずだ」
ジェードは自身を睨みつけるシトロンを見て面白そうに口角を上げると、涼しげな顔で言葉を返した。
「僕も君に言ったはずだ。もう事は動いていると。
彼女には男性を紹介するし、その男は既に彼女を気に入っているともね」
場に、緊張が走る。
少し離れたところに立っていたもう一人の男はシトロンの背中に遮られ、オリーブからは見えなくなっていた。しかし、その足がオリーブの方へ向いたことが耳に入ってくる音で感じ取れた。
ビクッ。
オリーブの肩が跳ねた。
ここに来たときに張っていた虚勢は、シトロンが来た時点で安堵と共に剥がれ落ちてしまっていた。
強制される望まぬ未来に感じる恐怖に、オリーブは自身の身体を抱き締めた、その時だった。
「!」
そんなオリーブの心情を察してか、シトロンの左腕が守るようにオリーブの身体を抱き込んだのだ。
「すべてがお前の思い通りに事が運ぶと思ったら大間違いだ。その傲慢さを何とかしないと婚約者に愛想を尽かされるぞ。
生憎、彼女はオレが口説いている最中なんだ。途中参戦は認めない」
二人の言葉の応酬はまだ繰り広げられているけれど、それどころではない。
オリーブは抱き込まれたことで知ってしまった。
辺境の男たちに比べ華奢な身体からは想像できない程に感じる筋肉と熱、そして安心感。
いつもの甘えた姿からは想像できない、その力強く、凛とした言動。
そんな“知らない男”のような一面を見せたシトロンとの”過度な接触”にオリーブは、彼を突き飛ばすと
「こ、こここ、こんなっ!!じ、女性に断りもなく触れるなんてっ・・・!」
そう叫んだ。
その後、オリーブは顔を真っ赤に染めあげたまま、何か言いたげに口をはくはくしていたが、言葉にならなかったのだろう。
踵を返すと──その場から逃げ出したのだった。




