2 大きな犬に懐かれてしまった気分だわ・・・
「リブ!喉が渇いたっ」
オリーブが宿舎で働き出して一週間。オリーブが宿舎の談話室を掃除していると、汗だくのシトロンが駆け寄って来た。
初対面の時とは明らかに異なる人格を疑問に思い本人に問えば、「あれはよそ行きだよ」と笑顔で言われてしまった。
「他の者が訓練場に飲み物とタオルをお持ちしているはずですが・・・。あと私のことはマルーンと、家名でお呼びください」
他の令嬢は訓練の休憩時間が近付くと、持ち場を離れて騎士の元に駆けだしてしまうのだ。皆で行かずに交代で担当を決めればいいのにと提案してみたが、担当ではない日にライバルに騎士様を奪われたら泣くに泣けないと、却下されてしまった。何事も平等が良いらしい。
中にはシトロン目当ての令嬢も何人かいるようだが、当の本人は何故か休憩時間になるとオリーブの元にやってくる。
ヴェルトは三つ年下であったが、その見た目と寡黙さから年下という感じはしなかった。しかしシトロンはレィディアンスと同級らしく五つ下。容姿もその性格も年下としか思えなかった。
オリーブには兄しかいないが、弟がいたらこんな感じだろうかと思いながら、ポケットから取り出したハンカチでシトロンの汗を拭った。
「ありがとう、リブ!でもハンカチ汚れちゃったね。そうだ、今度プレゼントするよ!あ、一緒に買いに行くのもいいね」
いや──これはしっぽを振りながら寄ってくる犬だ。
(大きな犬に懐かれてしまった気分だわ・・・)
「お茶──ですね」
オリーブはため息をつくと掃除道具を仕舞い、食堂とは別にお茶を淹れるために備えられている簡易キッチンに向かう。
「リブの淹れるお茶は最高に美味しいね!」
当たり前だ。
オリーブの淹れたお茶を褒めてくれるシトロンに笑顔で答えながらもそんなことを思う。
オリーブはヴェルトとの逢瀬──と思い込んでいた唯一の機会──で、彼に美味しいお茶を飲んでもらうために努力をしたのだから。
「シトロン様、私のことはマルーンとお呼びください」
「だってリブだってオレのこと名で呼ぶじゃないか」
「それは・・・規則ですから」
王国騎士は実家の爵位での忖度が一切ない。その為騎士は家名を名乗らないのが規則だ。
だから、オリーブは学園生であった時期が重なっていないシトロンの家名を知らないし、知っていたとしても呼ぶことが出来ないのだ。
仕事とはいえ心を寄せているわけでもない男性の名を呼ぶ──オリーブにとって、それは中々の苦行であった。
「それに“オリーブ”って呼んだらダメだって言ったのはリブでしょ?オレ、オリーブって呼ばないために、一生懸命リブに似合う愛称、考えたんだよ」
当然彼がわざとそう言っているということは、オリーブも理解している。
しかしそこまでする理由が分からない。
シトロンが他の令嬢を名で呼ぶのを聞いたことはない──というより話しかけているのを目にしたことがない。
以前のオリーブであれば、「私だけが特別なのだ」と思っただろうが、辺境での経験とシトロンとの年齢差がその考えを否定し、他の可能性を導き出す。
(男性慣れしていない私を揶揄っているの?)
つい赦してしまいそうな、絶妙な角度に首を傾け、「いいでしょう?」と上目遣いで懇願してくるシトロン。まるで赦される角度を計算しているかのようなその可愛らしさに、オリーブはつい頷いてしまいそうになるのを、必死に堪えるのであった。
*――*――*
「オリーブさん!」
ある日オリーブが掃除をしていると、同じく侍女として働く令嬢たちに声を掛けられた。
確かシトロンのことを狙っている方々だと記憶している。
オリーブは仕事の手を止め、彼女らに向き直ると返事をした。
「どうしたの?」
「シトロン様はいつも休憩時間になると訓練場からどこかへと姿を消すのですわ」
「ですが最近は決まって宿舎の方に走り去って行くんです」
「オリーブさん──心当たり、ありますよね」
オリーブは年下の令嬢たちに睨み付けるように言われたことに少々イラついたが、それを表に出さぬように顔を作った。
心当たり、という言われ方はオリーブに非があると言われているようで納得できないが、彼がどこにいるかは知っている。
「シトロン様なら、暖かいお茶がお好みのようで、休憩時間はいつも談話室で過ごされているわよ。
あなたたちが何を言いたいのかは分からないけれど、彼との接点が欲しいのであれば、あなたたちが行くべきところは私のところではなくて、休憩時間の談話室ではないかしら?」
オリーブがそう言うと、令嬢は意外そうな顔で彼女を見た。
「え?オリーブさんはシトロン様狙いなのでは・・・?」
「は?まさか!彼とは五つも年が離れているのよ」
「は!?オリーブさんは十九か二十歳くらいでしょ?」
「いいえ。私は今年二十四になるわ」
確かにオリーブは小柄で若く見られることは多いが、流石に十代は言い過ぎだ。
しかしその令嬢らはオリーブの年齢にかなり驚いたようで、そこからは何の化粧品を使っているのか、若見えの秘訣は何なのかなどの質問を散々受けた。
令嬢は元々の顔の作りが幼いだけよというオリーブの言葉に納得してくれない為、辺境の空気と水がきれいだからかしらと適当に答えたところ、辺境への嫁入り希望者が増えたのはまた別の話だ。
(もうすぐ休憩時間ね。談話室に近付かないでおきましょう)
それに、改めて口にして、気付いた。
オリーブとシトロンは年齢差が五つもあるのだ。
いつまでも年下に揶揄われている場合でもないし、シトロンもいつまでも人を揶揄っている場合ではないだろう。
(──彼が大きな犬・・・弟に見えて当然ね)
休憩時間になった。
今頃談話室ではシトロンを囲んで若い者同士、楽しい会話が弾んでいるに違いない。
(私は『新しい恋』に出会えるのかしら・・・)
──オリーブは小さく息を吐くと、掃除の続きに取り掛かった。




