10 伝えなければならないこと
「──ったんだろう?今日から剣に慣れるための訓練もはじめる──」
「剣ね!分かった!」
エボニーを避けているため、最近音沙汰がなかったヴェルトの姿を久しぶりに見たオリーブは、訓練場に近付いた途端に聞こえて来た愛しい人の声に、思わず声を掛けた。
「あっ、エボニー!ちょっと待っ「ヴェルト様っ!おはようございます」
「え?・・・痛っ!」
剣で訓練と聞いたエボニーは、ヴェルトの言葉を最後まで聞かずにいきなり鞘から剣を抜こうとした。それを止めようとしたヴェルトだったが、突然掛けられたオリーブの声に言葉を遮られた。更にそれに驚いたエボニーが剣を落としその剣が鞘を持つ腕をかすってしまったのだ。
護身用、と言っても戦う相手は主に野獣である。その為ヴェルトが腰から下げている剣と比べるとかなり小ぶりだが、殺傷能力がある刃物であることには違いない。
ヴェルトが慌ててエボニーに駆け寄る。
「馬鹿っ!いきなり抜くやつがあるかっ──いや、すまない。俺の説明が悪かった。大丈夫か?重さに慣れるまでは鞘ごと振ったり、刃を潰した剣で練習したりするんだ──」
「ごめんなさい、ヴェルト。大丈夫よ。少しかすっただけだし」
エボニーはヴェルトに平気だと笑って見せた。
「いや、邸に戻ろう。傷が残ったら大変だ」
痛みはあるが、自分は貴族令嬢ではない。こんなかすり傷気にしなくていいのにとエボニーは思ったが、謝りながら傷口にハンカチを巻くヴェルトを見て、その言葉を飲み込んだ。
声が届かなかったのか、こちらを振り向きもせずエボニーに駆け寄ったヴェルトの行動をオリーブは少し不満に思い、二人に近寄るとその手元を覗き込んだ。
そして目に飛び込んできた血まみれのハンカチを見ると「ひっ!」と声にならない悲鳴を上げ、ふらついたのだ。
「え?マルーン嬢!?」
突然現れたオリーブに驚くヴェルトだったが、彼女が地面に倒れ伏す前にヴェルトがその身体を支えた。その顔は血を見たショックで青ざめ──いや、紅潮している。
「何故ここに?いや、──立てますか!?」と戸惑いながらも尋ねるヴェルトの問いに何も答えられず、オリーブは口元を押さえて震えていた。
(ヴェルト様に、だ、抱きしめられているわっ!)
自身の言葉に何も答えないオリーブを喋ることが出来ない程気分が悪いのだと思ったヴェルトは、「失礼します」と言ってそのまま横抱きにすると、エボニーに「とりあえず戻ろう」と声を掛け、邸に向かって歩き出した。
毎日訓練が行われる辺境伯邸には有事に備えて医師が常駐している。
「エボニーさんの切り傷は浅いし切り口がキレイだ。新品の剣であったことも良かったです。若いし、おそらく跡は残らないでしょう。
マルーン嬢は血を見たことで軽い貧血を起こしたのだと思われます。ここで休んでいればじきに改善するでしょう」
治療と診察を終えた医師はヴェルトにそう説明した。
「よかった、ありがとうございます」
ヴェルトは胸を撫で下ろした。
その頃オリーブは医務室のベッドの中で悶えていた。
(ヴェルト様に触れられてしまったわ!)
しかしエボニーはやはり悪魔だった。
あの娘はヴェルトの気を引くためにわざと自分の腕を切りつけたのだ。
責任感の強いヴェルトは、平民とはいえ自身の管理下で婦女子の腕に傷をつけてしまったことに責任を感じ、自ら応急処置を行っていた。しかし、あの娘はそんなヴェルトを見て笑っていたのだ。
普通腕を切れば、その痛みと傷が残るかもしれないという恐怖で笑うどころではないはずだ。会話は聞こえなかったが、笑うなど絶対にありえない。
医師の話では幸い傷は残らないらしいが、万が一傷が残っていればヴェルトの責任問題になってしまい、何があろうとエボニーを娶らなければならない可能性が出てきていたのだ。
それを見越し、あの娘はわざと怪我をしたに違いない。
このままではいけない。
あの時そう思ったオリーブだったが、エボニーの腕に巻きつけられたハンカチに滲む血をみていると、次第に目の周りがチカチカし、立っていられなくなってしまったのだ。
(・・・気分が悪いわ)
エボニーのそばにいることが苦痛だろうヴェルトの癒しとなることが目的だったのに、このままではそれが達成できなくなってしまう──。
しかし、オリーブのそれは杞憂だった。
ヴェルトがオリーブには考えつかない大胆な行動に出たからだ。
そう、ヴェルトはふらつくオリーブを抱き留めたのだ!
夢にみた瞬間の訪れに、オリーブは言葉を発することも、動くことも出来なくなってしまった。
すると、すると、ヴェルトは──
(あ、あれが俗にいう“お姫様抱っこ”なのね・・・!)
日頃から寡黙で、そんな素振りも見せないヴェルトに軽々と横抱きにされた時の、腕の筋肉と厚い胸板、仄かに香る汗の匂い、何の憂いもなく全てを委ねられる安心感──オリーブは初めての体験に感動し、震え、しばらくベッドから動けなかった。
「マルーン嬢の様子は──」
オリーブがそろそろ働かなければと体を起こしたところで、医務室の扉が開いてヴェルトの声がした。
オリーブは慌てて体を起こすと、身なりを整えた。
「ありがとうございました」
医務室を出ると、オリーブはヴェルトに深々と頭を下げた。
「いえ。何事もなくて良かったです」
ヴェルトはそう言ってオリーブに笑い掛けた。
普段はレィディアンスの客人と使用人という立場で、私的なことを話すのはもちろん、目を合わせることも出来なかった。
二人きりになったのは初めてかもしれない。
絡まる視線がいつもより深くて、照れくさくなり、その視線を下げる。すると、先ほどオリーブを力強く抱き上げた逞しい二の腕と胸元が視界に入った。
「っ!」
オリーブは急に恥ずかしくなり、潤んだ瞳でヴェルトを見上げた。
「マルーン嬢・・・」
オリーブとヴェルトは想い合っているとはいえ、まだ婚約をしているわけでもないし、十分な会話があるわけでもない。だからヴェルトはいつもオリーブのことを家名で呼ぶのだ。オリーブはヴェルトに家名で呼ばれる度に切なく思っていた。
「──ォリーブと、ぉ呼びくださぃ・・・」
二人きりで話すことのできる滅多にない機会に、緊張で、声がかき消えるほど小さくなる。
「はい?」
「いえ・・・」
勇気を振り絞って言葉にした願いは、ヴェルトには届かなかったようだ。オリーブは二度も口にする勇気は持てず、思わず下を向いてしまう。
(大丈夫よ、オリーブ。婚約が成立すれば、この先いくらでも名を呼んでいただけるもの)
オリーブは、心の中で自身を励ますと再び顔を上げてヴェルトに声をかける。
照れている場合ではない。彼の耳に入れておかなければならないことがあることを思い出したのだ。




