第8話 アイル・クラウン
深夜――。
月明かりの下で、城門の金剛力士像の背中を見るのは、久しぶりだ。
相変わらず、彼らの背中は誰よりも逞しい。
「……お師匠。本当に、よろしいのですか?」
「……あぁ。幼馴染みの頼みだ。無下にはできない……」
「ですが――っ。お師匠は魔法を使えなくしても、魔法筆だけは……折ることは無かったじゃないですかッ! 『俺の魔法筆には命が宿っている』……そう言ったのは、嘘だったのですか?!」
虫も寝静まるこんな深夜に、リリィについて来てもらったのは――。
リリィなら、そう言ってくれると信じていたからだろう……。
我ながら情けない。
そんな後押しがないと、俺は……前に進めなくなってしまったのか。
見上げた先にあるのは、俺が昔作った二本の魔法筆。
樹海の元長バジリスクの目と牙から作った、俺の作品の中でも指折りの二本だ。
この街を守るために。そこに暮らす人間たちのために。俺はこいつらを作った。
……それが今では、罪を償った人間を閉じ込める檻になっている。
壊すだけなら簡単だ。指を鳴らせば、それで終わる。
それなのに――指先が、動かない。
「…………」
目の奥が熱い。
気づけば、頬を何かが伝っていた。
「お師匠……」
差し出されたのは、いつものハンカチだった。
「……リリィよ。師匠として、恥ずかしいところを見せてしまうところだったな」
「何を言ってるんですか、お師匠! 誰がお師匠のためだけに、ハンカチを持ち歩いてると思ってるんですか」
リリィは、ハンカチごと俺の手を包み込んだ。
小さな手は、暖かい。
「壊せないなら……壊さなくていいのです。お師匠は、魔法筆職人なのですから」
――そうか。
壊すか、残すか。その二つしかないと思い込んでいた。
だが、俺は魔法筆職人だ。作った物なら、作り変えればいい。
「そうだな。それに……魔法筆職人が、自分専用の魔法筆を持ってないのもおかしいしな」
「はいっ! お師匠なら、二本同時にだって使いこなせますよ!」
「……だよな」
魔法筆職人が、魔法筆なしで魔法を使っていたら世話がない。
だから、これが最後だ。
俺は――魔法筆なしの、最後の魔法を使う。
二体の金剛力士の手から、魔法筆がふわりと浮かび上がる。
広げた両手のあいだで、俺の手に収まる大きさまで、ゆっくりと圧縮していく。
圧縮するたび、右目の奥がずきりと痛んだ。
「お師匠……右目が、また青く……」
リリィの声には答えず、俺は仕上げの刻印を刻む。
右手用には『Aisle』。
左手用には『Crown』。
二本並べて読めば、俺の名前になる。
今まで、誰かのためにしか作らなかった魔法筆。
その二本を――初めて、自分のために。
俺は初めて……自分のためだけに、魔法筆を作った。
城壁を覆っていた薄い光の膜が、すうっと夜に溶けていく。
「結界が……消えていきます」
しばらくして、城門のそばの家に、ぽつりと灯りがともった。
出てきたのは、腰の曲がった白髪の老人だった。
空っぽになった金剛力士像の手を見上げ、老人はおそるおそる、門の外へ一歩を踏み出す。
何も、起きなかった。
老人はその場に膝をつき、声を殺して泣いた。
「……お師匠の魔法筆は、やっぱり、誰かのためになるのです」
リリィが、俺の袖をきゅっと握った。
その時、足元が、かすかに揺れる。
地の底で、何かが寝返りを打ったような――そんな揺れだった。
……二十年も前に、片をつけたことだ。今さら、何が起きるわけでもない。
お読みいただき、ありがとうございます!
アイルが初めて、自分のために魔法筆を作った夜でした。
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