第13話 リリィ
すすり泣きは、机の向こうから聞こえていた。
どうやら俺は、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
組んだ腕の隙間から、そっと様子をうかがう。
窓の外が、うっすらと白みはじめていた。ランプの火は、今にも消えそうに揺れている。
向かいの席で、小さな肩が震えていた。
……声をかけるべきか。
いや。これは、リリィ自身の決着だ。師匠の俺が、横から口を挟んでいいものじゃない。
俺は、寝たふりを続けることにした。
やがて、すすり泣きが止んだ。
リリィは袖で、顔をごしごしと拭う。
いつも持ち歩いているハンカチは、あくまで師匠専用らしい。自分の涙には、使わないのだ。
小さな手が、俺の肩を揺すった。
「……できました。……お師匠」
俺を起こすと同時に告げた――今のリリィの限界値。
彼女の目元は、何度も拭った涙で赤く腫れている。袖口も、すっかり色が変わっていた。
それでも、新たな涙の泉が今にも溢れかえりそうだった。
うつむいたまま、震える小さな両手で差し出された魔法筆の軸。
俺は体を起こして、それを受け取った。
マナを流し終えた魔鉱石は、白から澄み切った無色透明へと変わっている。
ただ――そこに深みはない。
表面の所々には、小さな窪みもできている。
職人として言わせてもらえば、店には並べられない。
……下手くそだ。
だが、これは――リリィが自分で『これでいい』と決めて、仕上げのマナを流した一本だ。
何度でもやり直せる魔鉱石を、自分の手で終わらせる。それがどれほど怖いことか、俺はよく知っている。
「よく頑張ったな。俺は、リリィが弟子で誇らしいぞ」
「……でも、下手くそです」
消え入りそうな声だった。
「あぁ。下手くそだ」
リリィの肩が、びくりと跳ねる。
俺は、軸を窓の光にかざした。差し込む朝日が、窪みのひとつひとつに溜まっていく。
「だから――ここが、リリィのスタート地点だ」
自分の手で作った、『下手くそ』の基準。
ここから先は、上がっていくだけだ。
「……はい……っ」
そこが、限界だったらしい。
リリィは俺の服の裾を握りしめたまま、声を上げて泣いた。
俺たちの朝食は、リリィが泣き疲れて眠りから目覚めるまで、先延ばしとなった。
~~
宿屋の食堂にて。
朝食というより、もはや昼食だ。
パンをかじりながら、リリィは何度も、自分で作った魔法筆の軸と魔法筆を見比べていた。
「お師匠。何でリリィのは、書いたはずの模様や柄が消えていて、お師匠が作ったのは模様が残っているのですか?」
俺が眠る前、リリィが軸に何かを描き込んでいたのは見ていた。それが、仕上げのマナを流した途端に、跡形もなく消えたらしい。
「そうだな~~。最後に決めるのは『マナ』だから、俺にもよくわからん」
「ええええええ?!」
わからないものは、深く考えない主義だ。
俺は茶を啜った。
「……デュラちゃんは、『消えたのではありません』って言ってます」
「ほう。じゃあ、どこへ行ったって?」
リリィは、テーブルの上のデュラに耳を寄せる。
「…………『それは、ご自分で』だそうです」
またそれか。
やっぱりこいつは、俺より賢い。
「とは言っても、分かっていることもある」
俺は、リリィの魔法筆を指差した。
「リリィにあげた魔法筆に、小さな色違いの星屑があるだろ? 何色見える?」
リリィが目を細めて、ひとつずつ数え始める。
「…………十三色ですか?」
「その通り。十三色ある」
俺は、少しだけ笑った。
「だが、それを作るまでは、何度……層を重ねても十二色までしか出すことができなかったんだ」
「それは、つまり……」
そう聞くリリィが、心配そうに見えるのは気のせいか……?
「わかるよな?」
俺はそう答えただけなのに――。
リリィの顔が、みるみる赤くなっていく。
「ま、待ってください、お師匠ッ! またリリィを泣かせる気ですか――――ッ!」
叫ぶなり、リリィはテーブルの下へ潜り込んだ。
「違う違うッ! そういうことじゃなくてだな!」
テーブルの下に隠れた弟子へ、口伝する。
「届けたい想いの数だけ、彩るんだよ」
職人の心得を、ひとつ教えただけだ。
……十三色目に何を込めたかまでは、言っていない。言っていない、はずだ。
「お師匠……それのドコが違うんですか――――ッ!?」
そう言って、愛弟子は脱兎の如く部屋へと走っていった。
テーブルの上には、置き去りにされた軸が一本。
拾い上げて、窓から差す光にかざしてみる。
深みのない、無色透明の軸だ。
――その奥で一瞬、何かが瞬いた。
目を凝らす。……もう、何も見えない。
「……消えたんじゃない、か」
わからないものは、深く考えない主義だ。
……そのはずなんだがな。
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