023 少女は顔についた泥を手で拭き取った
しばらくして。
ワニの死体をつついていたリンチェが、はっとしたように顔を上げた。
「もしかして、このワニをドラゴンと見間違えた可能性はありませんか?」
「!!」
たしかに……ありえなくはない。
ホルティの話によれば、目撃者が見たのは『娘が竜に食べられた』という場面だけだ。
もし、それが最初から竜ではなかったとしたら――?
俺はさっきリンチェが拾った片方だけの靴を取り出した。
「よし、こいつの腹の中を調べてみよう。もしこれと対になる靴が出てきたら……残念だが、その時は諦めるしかない」
「分かりました」
リンチェも覚悟を決めたようだ。
幸い、死体はまだ消えていない。
俺は迷わずワニの腹にナイフを入れた。
革を裂くような感触とともに腹部が開く。
解体作業なんて初めてだったが、思ったより刃はすんなり入った。
胃の中からは、カニの爪やら甲羅なんかの破片が次々と出てきた。
「カニを食べていたんですね」
「ああ。どうやら、こいつがここの頂点捕食者だったみたいだな」
魔物は人間を好んで食べると言われている。
だが、魔物同士で共食いのような真似をするとは初めて知った。
こいつらに食欲という概念があるのかは不明だが。
どんどん解体を進めていく。
だが、靴どころか骨や髪の毛といった人間の痕跡は一つも見つからなかった。
どうやらアテは外れらしい。
これ以上調べても時間の無駄だろう。
「行こう」
俺はナイフをしまった。
ふう、仕方ない。
振り出しに戻ったが、探索を再開するか。
「……?」
その時だった。
どこからか足音が聞こえてきた。
こんな場所に他の冒険者でもいるのか?
そう思った矢先。
「あれぇ……?」
幼い声が響いた。
間違いない、人の声だった。
やがて、声の主が姿を現した。
泥だらけの服を着た十歳前後の少女で、そして、なぜか靴を片方しか履いていなかった。
「お兄さんたち、どこから来たのー?」
あどけない声で少女が尋ねてくる。
どうしてこんなところに子供が?
「どこからって、君の方こそ、何故こんなところにいるんだ?」
「うーん……えっとねぇ、変な動物がいるって聞いたから見に来たの。そしたら迷子になって帰れなくなっちゃったの」
迷子って、それじゃまさか……?
「私たち、とある子を探しに来たんです。マリーンというのですが」
リンチェがしゃがみ込みながら言う。
「えっ? お姉ちゃん、なんで私の名前知ってるの?」
少女がぱちぱちと瞬きをした。
「それじゃ、ホルティさんのおっさんとこの!?」
「うん! それパパだよ」
俺とリンチェは顔を見合わせた。
「……なあ」
「はい」
「……よかったな、見つかったみたいだぜ」
「ええ、本当によかったです」
顔にこそ出さなかったが、俺は心の中で安堵した。
「それにしても、こんな魔物が出る場所でよく無事だったな。あ、ケガとかないか?」
「うん。平気だよ」
「食べ物とかは困らなかったんですか?」
「別に。ここ、バナナとかいっぱいあるし」
マリーンはあっけらかんと答えた。
実際、顔色も良く、見たところ体調も悪くなさそうだ。
そりゃまあ、切羽詰まった状況だったんだろうし、食べられるものは何でも食べるしかなかったんだろうが。
こんな環境にも適応するとは、たくましい娘である。
「それじゃあ、用事も済んだし帰るか」
地図を広げ、帰り道を確認する。
香水の効果が切れる前に完了してよかった。
「あっ、待って! 先にあの子にお礼言わないと」
「……あの子?」
「そう、わたしのお友達!」
友達って、他にも誰かいるのだろうか。
俺とリンチェが首を傾げていると、マリーンは指笛を吹いた。
ピュィィッ――!
「おいでー、ラブ!」
しばらくして、ざぷん、と水面が揺れた。
続いて、大きな水飛沫が上がる。
水中から現れたのは、奇妙な生き物だった。
甲羅のない海ガメのような体に、木の幹を思わせるほど長い首。
「見たことない魔物だな」
「お兄さん、ラブは魔物じゃないよ。ネッシーっていう動物なの」
「ネッシー?」
聞いたことのない名前に首を傾げる。
すると、名前を呼ばれたその生き物は「くぅ……」と小さく鳴いた。
そして長い首をゆっくりと下げ、マリーンの前へ頭を差し出す。
「よしよし」
マリーンは優しい手つきで頭を撫でた。
「……ラブはね、私がここで迷ってる間、ずっと一緒にいてくれたの」
マリーンはネッシーの首を抱きしめる。
「背中に乗せてくれたり、寝る場所まで連れて行ってくれたり。悪い魔物が来た時も追い払ってくれたんだよ」
「それでは、マリーンさんが生き延びられたのは、その首の長いヘンテコな生き物のおかげなのですね」
「そうだよ!」
魔物は人間を見つければ襲ってくるのが普通だ。守るような真似はしない。
それじゃあ、本当にただの動物なのか。
「ラブ……わたし、帰らないといけないの。せっかく仲良くなれたのに、ごめんね」
「くぅ……」
ネッシーは小さく鳴いた。
言葉の意味を理解したのか、その顔はどこか寂しそうに見える。
まさかうちで飼うとか言い出すんじゃないかと思ったが、ちゃんとお別れできたらしい。
青い体をしたその生き物は、一度だけこちらを振り返る。
「くぅ……」
そして静かに闇の奥へと消えていった。
「それじゃあ、行くぞ」
「うん!」
俺たちは、マリーンを連れて下水道を後にした。
土管の前で待っていると、しばらくしてユルナたちが戻ってきた。
「あれ? リンチェ先輩、ライノ先輩。もう戻ってたんだ――って、その子は!?」
「マリーンです! お二人に助けてもらいました」
「そうなんだ。よかった〜、心配したんだよ!」
「お姉さんたちも、わたしを探しに来てくれたの?」
「ええ、そうですわ」
サーティは優しく頷く。
「私たちだけではありません。あなたのお父様が、とても心配していましたのよ」
「え、パパが……?」
少女は目を丸くした。
「どうしたんだ?」
マリーンは俯いたまま何も答えない。
だが、しばらくしてぽつりぽつりと事情を話し始めた。
話によると、下水道へ近づいたのは学校でとある噂を聞いたからだそうだ。
『この辺りに面白い生き物が現れる』
そんな話を耳にして、好奇心旺盛な彼女は後先考えず見に来てしまったらしい。
そして、その結果がこれである。
数日もの間、行方不明になったのだから、学校では今頃大騒ぎだろうし、当然その話は親の耳にも入っている。
聞けば、ホルティのおっさんは娘を王都の学校に入れるために借金までしたそうだ。
そんな親を心配させ、多くの人に迷惑までかけてしまった。
帰ったら何と言われるのか。
それを考えると、怖くてたまらないのだそうだ。
「どうしよう……」
マリーンは潤んだ瞳で俺を見上げる。
すぐ泣きそうになるところは親子そっくりだな。
うーん。
こういう時、なんて声をかけたらいいのだろう。
「……ま、迷惑かけちまったもんはしょうがないだろ。でもよ、あとで死ぬほど謝ってさ、元気な顔を見せてやったら、それでいいんじゃねえの?」
「!」
こぼれそうだった涙を堪えるように、マリーンはぎゅっと唇を結んだ。
「少なくとも、娘が無事だったって分かったら、おっさんは喜ぶと思うぞ?」
「そう……かな?」
「そうです。子の無事を喜ばない親などいませんし」
リンチェも慰めるように首肯した。
「ぐす……わたし、パパにちゃんと謝りたい。心配かけてごめんなさいって」
涙声ではあったが、その言葉には、確かな誠意が込められているように見えた。
「お兄さんたち、町に帰るんだよね?」
「そうだな」
「じゃあ、わたしも一緒について行ってもいい?」
マリーンはそんなことを言った。
無論、問題はない。
というか、むしろそうしてくれた方が助かる。
おっさんとの約束は、娘を家まで連れて帰るところまでだからな。
「それじゃ、一緒に帰るか」
「うん!」
川を流れる路船便の、その日最後の便に乗った。
欄干に肘をつき、夜風に当たりながら、王都の夜景を眺める。
星みたいな明かりが川面に揺れていた。
久しぶりに、ゆっくりと時間が流れている気がした。
「ライノさん」
後ろから声がした。
振り返ると、リンチェが立っていた。
「お疲れ」
「はい。お疲れ様です」
リンチェはそう言うと、ごく自然な様子で隣へやって来る。
「王都観光、したかったな」
「はて。声に出ていましたか?」
「いや、きっとそんなこと考えてんだろうなって」
リンチェは小さく笑った。
「また来たいですね、王都。今度は遊ぶ目的で」
「そうだな」
しかし今度は、地下ではなく、ゆっくりと地上を歩きたいものである。
そんな話をしているうちに、船は目的の場所へと近づいていった。




