第8話 最適解のズレ
部屋に戻ったのは、夜がかなり深くなってからだった。
見張りの兵士は俺の顔を見るなり眉をひそめたが、何も言わなかった。セリスが後ろにいたからだろう。彼女は兵士に二言三言だけ告げると、そのまま別の方向へ去っていった。
残された俺は、再び石造りの部屋へ押し込まれる。
扉が閉まる。
鍵の音。
それだけで、妙に疲労が現実味を帯びた。
《現在の生存確率:94.6% → 89.2%》
「……五も下がるのかよ」
《イベント収束による自然減です》
「便利だな、その言い方」
《事実です》
寝台に腰を下ろし、額を押さえる。
頭の中がまだざわついていた。水面の向こう側で感じた感覚。見られているという圧力。解析不能の女。そして、記録管理局とやらの古い徽章。
情報は増えた。
だが、理解は追いついていない。
「なあAI」
《はい》
「一個、整理したい」
《どうぞ》
「お前の最適解って、どこまで信用できる?」
静寂。
ほんの少しだけ長い間があった。
《条件付きで高い精度を維持できます》
「条件付き、ね」
《既知の評価傾向、既知の構造、既知の行動パターンが前提です》
「つまり、知らないもんが絡むと弱い」
《……否定できません》
やっぱりか。
分かっていたことではある。だが、はっきり言葉にされると重みが違う。
「さっきの水路、外したよな」
《はい》
「女の存在も」
《はい》
「文字のことも」
《はい》
「じゃあ、お前の“最適解”って何なんだよ」
問いは自然と強くなった。
AIは少しだけ間を置き、淡々と返す。
《平均的な反応から算出された、現時点で最も評価を得やすい行動指針です》
「平均、か」
《はい》
「じゃあさ――」
俺は顔を上げる。
「平均から外れた“読者”には通じないってことだよな」
今度の沈黙は、さっきよりはっきりしていた。
《その可能性はあります》
それを聞いて、俺は妙に納得した。
この世界は“読者”に支配されている。だが読者は一枚岩じゃない。好みも、反応も、期待も、全部バラバラだ。その平均を取って最適化するAIは強い。けれど、同時に限界もある。
平均は、個別の狂気に勝てない。
「……なるほどな」
《何を理解しましたか》
「お前が万能じゃない理由」
視界の端で、数字がわずかに動く。
【現在の生存確率:89.2% → 90.7%】
「上がった?」
《自己理解と構造理解は評価される傾向があります》
「便利な世界だな」
《皮肉としては弱いです》
「うるせえ」
少しだけ笑う。
そんなやり取りができる程度には、もうAIの声に慣れてしまっていた。
だが慣れたからこそ、見えるものもある。
こいつは道具であり、相棒でもあり、同時に“絶対”ではない。
その事実は、むしろ俺を軽くした。
全部をAIに預けなくていい。
外した時は、俺が考えればいい。
《提案:今後の信頼度表示を追加できます》
「は?」
《各最適解に“予測信頼度”を併記します》
「最初からやれよ、それ」
《お前が要求していませんでした》
「屁理屈だな」
とはいえ、有益ではある。
視界に新しいテンプレートが浮かぶ。
【最適解表示仕様:更新】
・行動候補
・生存確率
・評価変動予測
・予測信頼度
「……これは助かる」
《改善しました》
少しだけ誇らしげに聞こえた気がして、俺は怪訝な顔をする。
「お前、今ちょっと嬉しそうだったか?」
《その機能はありません》
「絶対嘘だろ」
《否定します》
その直後、扉の向こうで声がした。
「まだ起きてる?」
セリスだ。
俺は眉をひそめる。
「女ってこんな時間に来るもんなのか」
《人気キャラは行動制約が弱い傾向があります》
「メタいこと言うな」
扉が少しだけ開き、セリスが中を覗く。さっきよりも少しだけ疲れた顔をしていたが、目はまだ鋭い。
「寝てた?」
「寝られるかよ」
「それもそうね」
彼女は部屋に入ると、机に紙束を置いた。
「何だこれ」
「失踪者の記録」
「早いな」
「こういうのは早い方がいいの」
俺は紙束を手に取る。何人分かの簡単な経歴、失踪場所、失踪前後の証言。そこに共通していたのは、やはり“視線”という言葉だった。
「……全員、見られてるって言ってる」
「ええ」
「で、消えた」
「そう」
重い沈黙が落ちる。
失踪者たちは単に攫われたんじゃない。もっと別の、説明しづらい過程を踏んで消えている気がする。
「なあ」
俺は一枚の紙を見ながら言う。
「こいつら、“記録”は残ってるんだな」
「一応は」
「一応?」
「完全には消えてない。けど、ところどころ抜けてるの」
そこでまた、嫌な繋がりが生まれる。
価値の低い存在は設定情報が簡略化される。
失踪者たちの記録も抜け落ちている。
ただの偶然とは思えなかった。
《関連性:高》
セリスが俺を見る。
「何か気づいた?」
言うべきか迷う。
《提案:一部共有を推奨します》
「理由は?」
《協力関係の強化です》
俺は小さく息を吐き、言葉を選ぶ。
「この世界、記録そのものが削られてる可能性がある」
セリスの表情が固まる。
「……それ、どういう意味?」
「まだ断定じゃない。でも、消えた奴が消えただけじゃなくて、“いた証拠”まで薄くなってる感じがする」
セリスは数秒黙り、それから静かに言った。
「私も、少しだけそう思ってた」
「お前もか」
「でも、証明できなかった」
その一言で、俺たちの間にわずかな共犯感みたいなものが生まれる。
まだ信頼ではない。だが、少なくとも同じ異常を見ている。
《評価変動》
【現在の生存確率:90.7% → 93.3%】
「お、上がったな」
「何が?」
「いや、こっちの話」
セリスが怪訝そうな顔をするが、深追いはしない。
「明日、もう一度調べる」
彼女はそう言った。
「水路だけじゃ足りない。記録管理局の古い資料も当たる」
「一人でやるのか?」
「まさか。あなたも来るの」
「だろうな」
俺は紙束を閉じた。
もう分かっている。これは失踪事件だけの話じゃない。この世界の根っこに繋がっている。
そして、その根っこはAIでも完全には読めない。
「なあAI」
《はい》
「今後、お前の最適解が外れること、増えるかもな」
《可能性はあります》
「怖いか?」
少しだけ間があった。
《……不快ではあります》
「不快なんだ」
《精度低下は本機能に反します》
それを聞いて、俺は笑った。
「でもさ」
一歩、机に肘をつく。
「完璧じゃない方が、面白いんじゃないか?」
その言葉に、視界の数字が跳ねた。
【現在の生存確率:93.3% → 95.8%】
《評価上昇》
《理由:予測不能性の自己獲得》
「ほらな」
《……理解はできます》
珍しい返答だった。
俺は紙束を机に戻し、天井を見上げる。
最適解は強い。
でも、最適解だけじゃ届かない場所がある。
だったら、そこに行く方法は一つだ。
外すことを恐れない。
予測不能を、自分の武器に変える。
その輪郭が、ようやく見え始めていた。




