第9話 観られるということ
翌朝、目が覚めた時には、頭の中が妙に冴えていた。
寝た気はしない。むしろ夜の延長みたいな感覚だ。だが、考えるべきことは山ほどある。
見えない視線。
水面の向こう側。
古い徽章。
削られる記録。
そして――読者。
《現在の生存確率:95.8% → 93.9%》
「朝イチで下げてくるな」
《停滞前の自然調整です》
「毎回言い方がうまいな」
《事実です》
兵士が朝食を置いていく。昨日と同じく薄いスープと硬いパンだが、今日はそれを味わう余裕が少しだけあった。
「なあAI」
《はい》
「昨日の話の続きだ」
《どうぞ》
「“読者”って結局何なんだ」
今まで何度も聞いてきた問いだ。だが、昨日の接触を経て意味が変わった。
以前は抽象的なルールの話だった。今は違う。
あれはいる。
確実に、どこかで俺たちを見ている。
《回答します》
表示が浮かぶ。
【読者:暫定定義】
・外部から本世界を観測する存在
・個別性を持つが、統計上は傾向化可能
・評価・注目・期待が本世界へ影響する
「“影響する”ってのがやっぱおかしいよな」
《本世界の中核構造です》
「それって神みたいなもんじゃないのか」
《全能ではありません》
「何で分かる」
《反応に一貫性がないためです》
なるほど。
神なら整っている。だが読者は揺れる。気分で変わる。昨日受けた感覚も、確かにそんな感じだった。冷酷で、でも統一された悪意じゃない。もっと気まぐれで、無責任な視線。
「じゃあ、あいつらはただ見てるだけなのか」
《観測と評価を行っています》
「助けたりは?」
《稀です》
「殺したりは?」
AIは少しだけ沈黙した。
《直接的ではなく、結果としてそうなる場合があります》
「……最悪だな」
《倫理評価は本機能に含まれません》
だが、その無機質さに少しだけ腹が立った。
見て、評価して、離れる。面白くなければ死ぬ。そんなルールを作っておいて、当人たちは責任を負わない。
観客席から石を投げてるようなもんだ。
「気に入らねえ」
《感情反応を確認》
【現在の生存確率:93.9% → 94.8%】
「これで上がるのか」
《怒りには推進力があります》
「都合がいいな」
《構造です》
その時、扉が開いた。セリスだ。今日は青い外套の上からさらに薄い上着を羽織っている。朝の光の中で見ると、夜よりも少し年相応に見えた。
「機嫌悪そうね」
「朝から世界の話してた」
「なおさら悪くなりそう」
彼女は机に新しい紙を置いた。
「記録管理局の過去資料。表には出ないやつ」
「お前、かなり偉いんだな」
「便利な立場なだけ」
俺は紙に目を通す。古い失踪記録、回収された遺留品、内部報告の抜粋。そこにあった単語に、目が止まる。
――観測欠落。
「これ……」
セリスも同じ箇所を指した。
「昔、似たような事件が何度かあったみたい」
「昔?」
「かなり前。でも全部途中で記録が途切れてる」
「途切れてるって」
「そのままよ。関係者の名前、場所、日時、何もかもが途中から曖昧になるの」
嫌な汗が背中を伝う。
昨日、水面に浮かんだ“未観測”という文字が頭をよぎる。
「……これ、消されてるな」
俺が言うと、セリスは静かに頷いた。
「私もそう思う」
《補足:記録破損の発生パターンが不自然です》
「お前もそう見るか」
《はい》
AIとセリスの意見が一致した。
それだけで、この仮説の重みが増す。
失踪者は消える。
その記録も削れる。
しかも、それは昔から繰り返されている。
「つまり、世界そのものが隠してるってことか?」
《可能性があります》
「あるいは、隠させてる何かがいる」
セリスの言葉に、俺は顔を上げた。
「何かって?」
「分からない。でも、この世界には“見られる側”と“記録する側”がいる。だったら、その間を調整するものがあってもおかしくない」
その発想は自然だった。
読者がいて、世界があり、AIがいて、記録管理局がある。全部がバラバラに存在しているとは思えない。どこかで繋がっている。
《評価上昇予測》
「何だ」
《構造理解の前進です》
その時、不意に背中が粟立った。
まただ。
見られている。
部屋の中。
昼間。
誰もいないはずなのに。
「……おい」
俺が低く言うと、セリスがすぐに反応した。
「何?」
「今、感じないか」
「何を」
「視線」
セリスの表情が変わる。ほんのわずかに、だが確実に。
「……ある」
その瞬間、俺の中で何かが確定した。
俺だけじゃない。
セリスも感じる。
ならこれは錯覚じゃない。
《視線反応:確認》
《発生源:不明》
「昼間でも来るのかよ」
《条件依存ではない可能性があります》
「つまり、いつでも見てるってことか」
気味が悪い。
だが同時に、妙な納得もあった。
物語ならそうだ。場面を選ばず、必要な時に視線はある。読者は都合よく存在して、都合よく消える。
その構造が、現実として俺の周りにある。
「……だったらさ」
俺は机に手を置いたまま、小さく笑った。
「逆に利用できるよな」
セリスが眉をひそめる。
「何を?」
「見られてるってことを」
AIがすぐに反応する。
《補足要求》
「向こうが見てるなら、こっちも見せ方を変えられるってことだよ」
セリスは数秒黙り、それから少しだけ口元を緩めた。
「あなた、本当にそういうの得意ね」
「最近分かってきただけだ」
《評価変動を検知》
【現在の生存確率:94.8% → 96.4%】
「ほらな」
《自己演出への適応が進んでいます》
「嫌な言い方だな」
でも、間違ってはいない。
見られることが避けられないなら、それを前提に戦うしかない。
隠れるんじゃない。
見せるんだ。
ただし、見せたい形で。
読者に振り回されるだけじゃなく、読者を振り回す側に回る。
その発想は、妙にしっくりきた。
「今日の夜、もう一回水路に行く」
俺が言うと、セリスがすぐに首を振る。
「危険よ」
「知ってる」
「それでも?」
「ああ」
俺は紙束を閉じた。
「見られてるだけじゃ終われない。見返さないと」
セリスは少しだけ呆れたように息を吐き、それから言った。
「じゃあ今度は私も行く」
「昨日、一人で行けって言ったのは誰だよ」
「状況が変わったの」
理屈は通っている。
そして多分、彼女自身ももう引けないんだろう。
《評価安定化を確認》
俺は頷いた。
見られている。
評価されている。
だったら、その視線ごと利用する。
この世界のルールがそうなら、まずはその中で勝つしかない。




