第7話 観測の外側
気づいた時、俺はまだ水路の縁に膝をついていた。
冷たい石の感触が掌に張り付いている。息は荒く、喉の奥がひどく乾いていた。ほんの数秒だったのか、それとも何分もあの“向こう側”にいたのか、自分でも分からない。
《現在の生存確率:94.1% → 91.8%》
「……戻った途端に下がるのかよ」
《異常接触によるピーク評価が減衰しています》
「便利な言葉だな、減衰」
《現実です》
俺は乱暴に立ち上がり、袖で口元を拭った。
視界はもう通常通りだった。路地の暗さも、水路の黒い揺らぎも、さっきまでと同じようにそこにある。だが決定的に違うものがある。
俺の中だ。
あの場所に触れたことで、何かが確実にズレた。
「……なあAI」
《はい》
「さっきの、どこだったと思う」
少しだけ間が空く。
《仮説上は“観測層の外縁部”です》
「だから分かりにくいって」
《この世界の内側から通常観測できない領域です》
「外、ってことか」
《完全な外部ではありません。境界付近と考えてください》
境界。
その言葉だけで、背筋が冷えた。
世界の外側。あるいは外側に近い場所。そんなものに、俺は今触れたのか。
「……そんなところに、どうして俺が」
《お前が“視線”を感知したためです》
「視線を感じたから境界に触れた?」
《可能性は高いです》
つまり、見られていることに気づいたから、見ている側に近づいた。
気味が悪いにもほどがある。
その時、不意に水面が揺れた。
小さく。だが、明らかに風とは違う揺れ方だった。
俺は反射的に身構える。
「また来るのか?」
《警戒を推奨》
黒い水面の中に、ぼんやりと光が差した。
いや、光じゃない。
文字だ。
水面に、何かが浮かんでいる。
「……は?」
しゃがみ込み、目を凝らす。
文字は形を保てず、滲み、崩れ、また結び直される。読めそうで読めない。だが一語だけ、はっきり浮かび上がった。
――未観測。
「未観測……?」
《新規概念反応》
次の瞬間、その文字列は崩れ、水に溶けるように消えた。
「今の見たか?」
《一部記録しました》
「一部?」
《完全な再現に失敗しています》
「おいおい」
AIの返答はどこまでも冷静だが、内容は冷静じゃない。記録すら取りきれないものが、目の前で起きている。
その事実に、むしろ妙な実感が湧いてきた。
AIは万能じゃない。
この世界も、AIで完全に把握できるほど単純じゃない。
なら――
ここから先は、もっと厄介になる。
《提案:現場に残された証拠の再確認を推奨します》
「……ああ」
俺は手の中の壊れた徽章に視線を落とした。
さっき拾った金属片。欠けた紋章。触れた感じは古びているが、完全に朽ちているわけじゃない。最近壊されたものにも見える。
《拡大解析を実行します》
【対象:破損徽章】
・所属情報:不明
・素材:混成金属
・破損状態:外力による断裂
・年代推定:記録と不一致
「記録と不一致?」
《本世界の一般的な工芸水準と一致しません》
「じゃあ何だよ、これ」
《不明です》
また不明。
でも、その“不明”の質が変わってきている。
ただ分からないんじゃない。世界の常識と噛み合わないものが出てきている。そういう感じだ。
その時、路地の向こうで小さな物音がした。
石を踏む音。
今度は確かに一回だけじゃない。二歩、三歩、規則的にこちらへ近づいてくる。
《人間反応:1》
「誰だ!」
声を張ると、暗がりの向こうから青い外套が現れた。
「そんな大声出さなくても聞こえるわよ」
セリスだった。
俺は無意識に肩の力を抜き、それからすぐに顔をしかめる。
「……尾けてたのか?」
「半分正解」
セリスは俺の前まで来ると、水路の様子を一瞥した。
「気になったの。あなたがちゃんと戻ってくるかどうか」
「信用してないって言ってただろ」
「ええ。だから確認に来たの」
躊躇いなく言い切られて、逆に清々しい。
《補足:対象“セリス”の好感度は安定していますが、信頼度は限定的です》
「分かってるよ」
ぼそりと返すと、セリスが眉をひそめる。
「また独り言?」
「癖なんだよ」
「変な癖ね」
そう言いつつも深追いはしない。こいつはこいつで、人が言いたくないことに踏み込みすぎない距離感を知っているらしい。
「で?」
セリスが水路を見たまま言う。
「何があったの」
俺は少し迷った。
どこまで話すべきか。
《提案:全ては開示しないでください》
「理由は?」
《現時点で“向こう側”の情報は共有リスクが高いです》
「……便利だな、お前」
《合理的です》
俺は一つ息を吐き、答えを選んだ。
「誰かがいた」
「誰か?」
「女だ。暗がりに立ってて、こっちに何か言って消えた」
セリスの表情が、わずかに変わる。
「女……」
「知ってるのか?」
「断定はできない。でも、失踪事件の前後で“女の影を見た”って証言はいくつかある」
「じゃあやっぱり関係者か」
「そう単純とも限らない」
セリスは慎重だった。
人気キャラらしく安易に驚かない、というより、驚いてもそれをすぐ表に出さない。そういう強さがある。
「それだけじゃない」
俺は手の中の徽章を見せる。
「これが落ちてた」
セリスが目を細める。
「見せて」
差し出すと、彼女はそれを受け取り、月明かりの下で裏表を確かめた。その指先が一瞬だけ止まる。
「……これ」
「何か分かったか?」
「分かりたくないものが分かったかもしれない」
「は?」
セリスは少しだけ黙り、それから低い声で言う。
「これ、王都の記録管理局が使う徽章に似てる」
「記録管理局?」
「名前の通り、戸籍や経歴、各種記録を管理する機関」
そこで俺の胸の奥に、小さな違和感が走る。
記録。
設定情報。
価値の低い存在は簡略化される。
第3話でAIが言っていたことが、頭の中で不気味に繋がり始める。
「……おい、まさか」
《関連性:高》
セリスはまだ続ける。
「でもおかしいの。記録管理局の人間が、こんな場所に個人で来る理由がない。それに、この型は古い。今はもう使われていないはず」
「古いのに今ここに落ちてた?」
「そういうことになる」
矛盾だ。
でも、この夜に起きていることは全部そんな感じだった。
見えない視線。説明不能の境界。古くて新しい徽章。誰にも見えない女。
《評価変動を検知》
【現在の生存確率:91.8% → 94.6%】
「上がったな」
《謎の接続性が強化されています》
「ほんとに作品みたいな言い方するな」
《この世界はそういう構造です》
セリスがちらりと俺を見る。
「何か、私に隠してる?」
鋭い。
だがここで全部を喋るわけにはいかない。
「お互い様だろ」
そう返すと、セリスは小さく笑った。
「そうね」
完全には誤魔化せていない。それでも、今はこれでいい。
彼女は徽章を俺に返した。
「それ、持ってて。多分、あとで必要になる」
「お前が持ってった方がいいんじゃないのか」
「今はあなたが見つけたものよ。あなたが持つ方が流れとして自然」
「流れ?」
セリスは一瞬だけ言葉を止め、それから肩をすくめた。
「……何でもない」
今のは引っかかった。
だが問い詰めるより先に、AIが表示を出す。
【次の優先行動】
・現場から離脱
・証拠の保全
・セリスとの情報交換継続
「今日は引くべきか」
《推奨します》
俺は最後にもう一度、水路の奥を見た。
暗い。
静かだ。
なのに確かに、まだ何かがこちらを見ている気がする。
「……また来る」
俺が言うと、セリスが隣で静かに頷いた。
「ええ。たぶん、向こうもそう思ってる」
その言い方が、妙に嫌だった。
水路から離れながら、俺は手の中の徽章を強く握った。
見えないものがある。
AIでも読めないものがある。
そして、それは確実にこの世界の深いところへ繋がっている。
だったら――
ここで終わるわけにはいかない。
まだ、見えていないだけだ。




