第6話 水面の向こう側
水路の奥へ、俺は一歩踏み込んだ。
足元の石がぬめる。
滑るような感覚に、思わず体勢を崩しかけて踏ん張る。
《現在の生存確率:88.4% → 86.9%》
「……また下がるのかよ」
《緊張のピークが緩和されています》
「意味分からん」
《危機の持続が評価維持に繋がります》
「最悪の仕様だな」
俺は舌打ちしながら、水路へと視線を落とした。
黒い。
ただ黒いだけの水。
だが、その奥に“何か”がある。
そう確信できる。
さっき見た“あれ”は錯覚じゃない。
《観測を継続しています》
「何か見えてるか?」
《視認対象:なし》
「じゃあさっきのは何だ」
《説明不能です》
またそれだ。
だが、今はそれが逆にリアルだった。
分からないものは分からないと答える。
それは、ある意味で信頼できる。
「……触るか」
《行動候補を提示》
① 水面接触(成功率:95.1%/危険:高)
② 離脱(成功率:72.3%)
③ 呼びかけ(成功率:88.0%)
「成功率おかしいだろ」
《高リスク行動は評価を大きく変動させます》
「……つまり、面白いってことか」
《はい》
俺は小さく息を吐いた。
こういう時、選択肢は一つだ。
「①だな」
《確認:水面接触を実行します》
「やるしかねえだろ」
俺は膝をつき、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、水に触れた。
その瞬間。
――音が消えた。
風も。
街の気配も。
全部。
消えた。
「……っ!?」
上下の感覚が消える。
立っているのか、浮いているのかも分からない。
ただ一つだけ残っているのは――
“見られている”という感覚。
それだけだった。
《重大異常》
「どこだ……ここ」
声が、妙に遠い。
自分の声なのに、自分じゃないみたいだ。
その時だった。
「やっと、触れた」
声がした。
女の声。
だが、さっきの位置とは違う。
もっと近い。
いや――
頭の中に直接響いている。
「……誰だ」
「見えてる?」
「……何を」
「こっち」
視界が歪む。
黒い水の中に、何かがある。
人影。
いや、人じゃない。
輪郭が不安定で、形が定まらない。
それでも分かる。
こっちを見ている。
いや――
“見られている”。
それも、さっきまでとは比べ物にならないほど強く。
《警告:観測強度異常》
「おいAI!」
《応答中》
「これ、何だ!」
《解析不能》
「またそれかよ!」
その瞬間。
その“影”が、ゆっくりと動いた。
近づいてくる。
距離の概念がおかしいのに、確実に“近づいている”。
「……来るな」
思わず言葉が漏れる。
だが止まらない。
むしろ――
楽しんでいるようにすら見える。
「……っ」
心臓がうるさい。
逃げたい。
だが――
動けない。
その時。
《提案:視線を逸らしてください》
「は?」
《観測を断つ必要があります》
「どういうことだ!」
《“見ている”状態が継続すると、影響が増大します》
「つまり――」
《目を逸らしてください》
直感だった。
理由は分からない。
でも――
従うしかない。
俺は無理やり視線を切った。
その瞬間。
世界が、戻る。
音が戻る。
風が戻る。
重力が戻る。
「……っ!!」
思わずその場に手をつく。
呼吸が荒い。
冷たい石の感触が、やけに現実を強調してくる。
《状態復帰》
【現在の生存確率:86.9% → 92.7%】
「……上がってる」
《未知要素との接触により評価上昇》
「マジかよ……」
震える手を見下ろす。
さっきまで触れていた水。
ただの水じゃない。
確実に“何かと繋がっている”。
「……なあ」
《はい》
「今の、何だった」
少しの沈黙。
ほんの、わずかな間。
《仮説を提示します》
① 世界構造の外層接触
② 読者観測の直接干渉
③ 未知存在との接触
「全部嫌なんだけど」
《否定材料はありません》
俺はゆっくり立ち上がった。
まだ足が少し震えている。
だが、分かったことがある。
この世界は、ただの“ゲーム”じゃない。
もっとおかしい。
もっと危険だ。
そして――
もっと、“見られている”。
「……なるほどな」
小さく呟く。
「これは確かに、面白い」
その言葉と同時に、数値がまた動いた。
【現在の生存確率:92.7% → 94.1%】
《評価上昇》
「……ちょろいな」
《単純ではありません》
「分かってるよ」
でも、掴んだ。
この世界の核心に、少しだけ触れた。
なら――
次にやることは一つだ。
「もっと、踏み込む」
水路の奥を見つめながら、俺は静かに呟いた。
見えない視線の中で。
確実に“何か”に観られながら。
それでも、俺は――
進むしかない。




