第5話 消えた存在
夜の街は、昼間とは別の顔をしていた。
石畳の路地は湿っていて、建物の隙間を抜ける風がひどく冷たい。灯りはまばらで、少し脇道に入るだけで簡単に闇が深くなる。
俺は外套の襟を少し上げ、地図を片手に歩いていた。
兵士の同行はない。
セリスの言った通り、一人だ。
《現在の生存確率:80.6% → 77.1%》
「また減ってるな」
《移動のみでは変動が弱いためです》
「じゃあ何か起きてほしいってことか?」
《緊張感のある展開は有益です》
「最悪の相棒だな」
《否定しません》
地図によれば、目的地は古い水路のそば。今は使われていない区画で、人通りも少ないらしい。
実際、ここまで誰ともすれ違っていない。
静かすぎる。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
「……嫌な感じだな」
《周囲を解析中》
【周辺環境】
視認可能対象:0
人間反応:0
光源:低
退路:3
「何もいない、ってことか」
《視認範囲では》
「その言い方やめろよ」
俺がそう言った時だった。
首筋に、ぞわりとした感覚が走る。
冷たいものが背中を這い上がるような、不快な感覚。
反射的に立ち止まり、振り返る。
誰もいない。
路地の奥は暗く、建物の壁が続くだけだ。
「……おい、AI」
《はい》
「今、何か……」
《観測:視線反応あり》
思わず息が止まる。
「視線?」
《はい》
「誰のだ」
《不明です》
「不明?」
初めてだった。
AIが、即座に答えを返さなかったのは。
「見えてないのか?」
《物理対象を確認できません》
つまり、“いる”のに“見えない”のか。
それとも、“見られている感覚”だけがあるのか。
「……セリスの言ってたやつか」
《可能性:高》
俺は無意識に歩幅を狭めた。
視界の隅で、ウィンドウがわずかに乱れる。
《警告:本現象は既存データと完全一致しません》
「お前でも分からないのか」
《はい》
静かな肯定。
その一言が、やけに重い。
AIは万能じゃない。
第1話でわずかに感じた違和感が、ここで確信へと変わる。
「……それでも進めるか?」
《推奨:進行継続》
「理由は?」
《未知への接触は、継続期待と核心接近を同時に満たします》
「“面白いから進め”ってことだろ」
《概ねそうです》
クソが。
でも、止まれば終わる。
だったら進むしかない。
俺は息を整えて、さらに奥へ進んだ。
やがて、水の匂いが強くなる。
古い水路が見えた。
黒く濁った水面が、わずかな灯りを鈍く反射している。
その時――
足元に、何かが落ちているのに気づいた。
布だ。
しゃがんで拾う。
袖の一部。
乱暴に引きちぎられたような痕がある。
《新規証拠を確認》
《推定:失踪者の遺留品》
「生きてる可能性は?」
《不明》
「またそれかよ……」
その時だった。
水面が、揺れた。
風じゃない。
内側から、触れられたみたいに。
波紋が広がる。
「誰だ!」
反射的に声を張る。
返事はない。
だが――
視線が、増えた。
さっきまでのものとは違う。
一つじゃない。
複数だ。
確実に、こちらを見ている。
「……っ!」
《視線反応増大》
《計測不能領域へ接近》
「計測不能って何だよ!」
《説明不能です》
その瞬間。
視界の端で、“人影”が揺れた。
水路の向こう側。
暗闇の中に、確かに何かが立っていた。
女のように見えた。
細い輪郭。
長い影。
だが――
瞬きをした瞬間、消える。
「……消えた?」
喉が鳴る。
その直後。
背後で、足音が鳴った。
一歩だけ。
振り返る。
誰もいない。
だが――
足元に、何かが落ちていた。
さっきまでなかったものだ。
小さな金属片。
拾い上げる。
徽章だ。
どこかの所属を示すもの。
だが、割れている。
意図的に壊されたみたいに。
《新規証拠を確認》
《関連性:高》
「これは……」
その時だった。
暗闇の奥から、声がした。
「まだ、見えていないのね」
女の声。
静かで、冷たくて、でもどこか愉快そうな響き。
顔を上げる。
そこに――いた。
さっきと同じ、人影。
今度は消えない。
じっとこちらを見ている。
《警告》
《対象不明》
《解析不能》
「誰だ、お前!」
叫ぶ。
だが女は答えない。
一歩だけ後ろへ下がる。
そして――
闇の中へ、溶けるように消えた。
「待て!」
一歩踏み出した瞬間。
水面が大きく揺れる。
視界が歪む。
数字が跳ね上がる。
【現在の生存確率:77.1% → 88.4%】
【未知要素との接触】
【継続期待:大幅上昇】
「……上がった?」
《はい》
「こんな状況で喜べるかよ……!」
だが、事実として上がっている。
それが、この世界だ。
危険でも、意味があれば評価される。
理解不能でも、“面白ければ”価値になる。
「……おいAI」
《はい》
「今の、どう思う」
少しの沈黙。
それから、答えが返る。
《仮説を提示します》
① 失踪事件の関係者
② 世界構造の深層に接続した存在
③ 読者観測の異常出力
「二つ目と三つ目、嫌すぎるな」
《否定材料はありません》
俺は水路の闇を睨む。
見られている。
今も、どこかから。
誰もいないはずなのに。
でも、確実に“何か”がいる。
そして――
そいつは、俺を見ている。
値踏みするように。
楽しむように。
その感覚が、はっきりと分かる。
「……この世界」
小さく呟く。
「思ってたより、やばいな」
《同意は保留します》
「否定しろよ」
《現時点では判断材料が不足しています》
その言い方が、妙に引っかかった。
AIはいつも合理的だ。
でも今のこれは――少しだけ、人間っぽかった。
俺は徽章を握りしめる。
ここから先に、何かがある。
分かる。
でも同時に――
踏み込んだら戻れない気もしていた。
それでも。
止まれば終わる。
それだけは、もう理解している。
だから俺は、もう一歩だけ前に進んだ。
水路の闇の奥へ。
見えない視線の中へ。
まだ何も分からないまま――
ただ、“読まれ続けるために”。




