きたのもりのいりぐち
無知は罪という言葉がある。
だけど同時に、知らないという事は幸せでもある。
たとえば、見知らぬ土地。はじめての旅に心馳せる若者。
地図でしか知らない、あるいは地図すらも知らない土地に目を輝かせる旅人は、その心の真っ白な地図に、見たこと、感じたことを喜びと共に書き込んでいく。
知らないからこそ……はじめて見るものだからこそ、楽しくて嬉しい。
そう。
知らないという事は、確かに幸せな事なのだ。
川を渡る方法を見せたレクターに、驚いたサユリ。
精霊として過ごした時間も短く、また生前の記憶も断片的だった。それに現在の生活と全く関わりのない記憶というものはそうでなくとも鮮明さを失っていくもので、結果としてサユリの『今』は、無知な子供とほとんど変わらなかった。
そんなサユリにとり、森の外の世界や、そしてレクターのもたらしたものはあまりにも新鮮だった。見えるもの全てに瞳を輝かせ、その興味は失せる事がなかった。
そんなサユリだったが。
「ひゃっ!」
「はやくおいでよサユリ。噛みつかないって」
「う、うん、噛みつかない、噛みつかないけど……きゃあっ!」
レクターが川の中洲で呼んでいる。
サユリもさきほどから渡ろう、渡ろうとしているのだけど、どうしても歩きだせずにいる。
水没してしまうから?
いや違う。
水の上が怖い?
いや、これも違う。
実は、サユリが困っている理由というのは……。
「なんで、こんな集まってくるの?」
「そりゃ、僕らが精霊だからね」
「意味わかんないんだけど?」
「接触すると、微量だけど魔素が漏れるんだよ。それに魚が引き寄せられるのさ」
「……うぅ」
そう。
水面下に、ものすごい数の魚が集まっているのである。
ただ集まっているのならいいが、サユリが足を踏み出すと一斉に水面下から突っついてくる。
つまり、サユリが歩こうとすると、一歩踏み出すたびに足の裏を大量の魚がつつきまくるのである。
そして、その感触に怯えたサユリが岸に戻り、そこからソロソロと足を出そうとするわけで。
「そういや、健康サンダルっていう恐ろしい履物があったっけ。足の裏の感触と痛い、苦手って記憶しかないんだけど、なんかわかるような気がするねえ」
「痛い履物って想像つかないんだけど。拷問器具か何かかい?」
「ある意味そうかも」
「はぁ。
それよりさ、そうやって、おっかなびっくりやってるからどんどん魚が増えてくるんだよ?わかってる?」
「そんなぁ……」
サユリは精霊になって以降、一度も靴をはいた事がない。
だけど精霊であるから、その足は裸足生活を続けているにも関わらず、まるで赤ちゃんのように傷がなく柔らかい。そして硬い地面でいじめられた事がない皮膚もフワフワでみずみずしい。
その柔らかい足の裏に、大量のお魚アタック。
情けない話ではあるが、サユリがなかなか足を踏み出せないのも無理はなかった。
「はぁ……サユリ、いい事教えようか?」
「え、なに?」
「息をつめて全身緊張させて、ズバッて走り抜けると痛くないよ?」
「ほんとう?」
「少なくとも最低限ですむのは間違いない」
「そ、そっか……わかった、やってみる!」
立ち上がると、何か決意を秘めたように悲壮な顔になるサユリ。
ちなみに、サユリが決意を秘めた瞬間に彼女から漏れる魔力が大きくなり、さらに魚が水面下に押し寄せているのだが、レクターはそれをあえて指摘しない。サユリの決意に水をさしてしまうからだ。
「いっくよぉ……っていっ!」
そういうと、サユリは猛然と中洲のレクターに向けてダッシュした。
「……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
水面を走りだした瞬間、サユリの顔が歪んだ。
しかしそのまま顔を真っ赤にしつつ、悲鳴を上げながら川の中洲に向けて走り抜けてきた。
そして、中洲にあがりこむとレクターの隣に、ばったーんと倒れこんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……あぁぁぁぁあぁぁぁ……」
「そ、そんなに痛かったの?」
涙目になり、はぁはぁと息が荒い。まるで猛獣に追われて命からがら逃げ出した人間の子供だった。
そんなにきついのだろうか?
いくらなんでもちょっとひどいと、見かねたレクターがサユリに質問したのだけど。
「……よく、わ……かん……ない」
「というと?」
「さ……し……」
「ああ、まずは落ち着けなよ。おわてなくていいから」
「う、うん」
ハァハァと息も絶え絶えだ。かなりきつかったらしい。
少しずつ、少しずつ息を整えていったサユリだったが、
「最初は痛かったんだけど、途中からわけわかんなくなって……」
「わけわかんないほど痛かったの?なんだろう?」
サユリはいわば異世界起源の精霊だ。かなり自分と何か違うところがあるのかもしれない。
そう思ったレクターはゆっくりと、サユリに話をきいてみた。
「えっとね、そうじゃなくて」
「?」
「最初は痛かったんだけど、途中からだんだん苦しくなってきて……足に力が入らなくなってきて」
「……む?足に力が入らない?」
「うん。何とか岸についたところで頭が真っ白になって……はぁ」
「……」
ふと考え、レクターはサユリの臭いをスンスンと嗅いでみた。
「えっと、なに?」
「いや……なんでもない」
「?」
「それより、落ち着いたら後半戦があるからね」
「後半戦?」
「ここ中洲だよ?まだ向こう岸まで半分あるわけで」
レクターの言った意味を改めて反芻して、サユリが少しひきつった笑みを浮かべた。
「……が、がんばる」
「ああ、がんばらないとね」
「う、うん」
その後、やっとの事で渡り終えたサユリは意識も絶え絶えだった。川岸に倒れた彼女は時々ピク、ピク、と痙攣するだけで、あとは荒い息を繰り返すだけの物体となりはてていた。
その後、ようやく復活したサユリだが、なぜか水に落ちてないのに濡れてしまった下着の浄化にひと騒動したり、再出発には少し時間を要する事となってしまった。
「もう、川はイヤ……」
「そう?あと何回か渡ったらクセになるんじゃない?」
「……」
「あはは」
サユリにジロリとニラまれ、レクターは苦笑した。
そんな大騒動をしつつも川を渡ったふたりは、さらに足を伸ばす。
「あれ、なんか道と交差してるね」
道といっても獣道だが、確かに交差していた。
「川沿いの道だね。たぶん東部の村の人間たちが川沿いに移動するための道じゃないかな?」
「そうなんだ。馬車とか使わないの?」
「森のほとりに住む人たちは馬車を使わないんだよ。森が馬に向かないからだけどね」
「そうなんだ。じゃあ、ここにいると東の人に会えるの?」
「一年に一度くらいなら、待ち伏せて会えるかも」
「そんな少ないの!?」
「徒歩だからね」
「そっかー」
その道を乗り越え、さらに進む。
やがて、北の森の入り口が目の前に見えてきた。
「オークだね」
「うん、オークだね」
森の入り口のところに、武装した巨大なオークが石像のように立っていた。
「北の森を守ってるんだね。
サユリ、彼らは他の森の者だと精霊でも警戒するから気をつけ……ってサユリ!?」
レクターが止める間もなく、とことことサユリはそのオークの前まで移動した。
「こんにちは、北のオークさんでいいの?」
「……そうだ」
ゆっくりと、しかしそのオークは目をサユリに向けた。
「樹精の森で行き倒れさんに託されたものを神殿に届けたいの。通っていいかな?」
「ふむ」
オークは少し、思案するように顎に手をやった。
「通りたいのはおまえと、そこの猫か?」
「うん」
「通るのはかまわないが、人間の神殿に行けるかはわからない」
「え、どうして?」
「武装した人間たちが神殿を取り囲んでいるからだ。彼らの都合はわからないが、神殿と敵対している勢力のようだ」
「そう……困ったわね」
ウーンと考えこむサユリ。
そんなサユリに、オークは少し考えこんだ。そして、
「精霊なら行けるかもしれない」
「え?」
「奥の泉に行け。そこにいる水の精霊に事情を話してみろ。断言できないが、何か手があるかもしれない」
「奥の泉?いけばわかるかな?」
「この道をしばらく進むと、森の整備をしているわが同族がいる。そいつが案内できる」
「そっか、ありがとう!」
「かまわん。気をつけていけ」
「うん!いこうレクター!」
「あ…ああ」
レクターはなぜか、オークと話しているサユリを呆然と見ていた。
そしてサユリに急かされて、はじめて我に返ったようだった。
「……記憶に引っ張られてない精霊って、こんな物凄いものなのか」
「レクター?」
「ああ、いくいく。……そんじゃ失礼します」
「……」
白猫のあいさつに、オークは無言で片手をあげた。「気をつけていけ」という意味だが、大きな鎧姿のオークがやると妙に決まっている。
レクターは、そんなオークのそばを複雑な思いと共に通り抜けた。




