第7話 違和感の正体
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
二週間後。
千葉北西病院に検査結果を聞きに来たハユンと亜希子。石川医師はさらりと言う。
「乳がんです。ステージ3か4に当たります」
「……」
ハユンは耳を疑った。
「今なんて言いましたか」
亜希子は石川医師に気を遣ってハユンに言う。
「ハユンさん、乳がんでステージ3か4だそうよ」
石川医師はモニターに映り出された胸部の画像を見ながら平坦な声で続ける。
「この、黒い塊ががんです。直径5センチほどあります」
ハユンは動揺して画面を見ることさえままならない。石川医師は続ける。
「ご家族にがんだった方はいらっしゃいませんか?」
「父が、大腸がんでした」
「そうですか。他には」
「親戚に二人います」
「がん家系かもしれませんね」
石川医師の平坦な声が、亜希子の胸に刺さって来るようだった。ハユンは亜希子の顔色が悪くなるのを感じ取った。
ハユンは迫るように言う。
「治療はどうなりますか。治療すれば治りますよね」
「今はがんも治る病気ですから、治療方法もいくつかあります」
「治療を、治療をお願いします」
ハユンは縋るように言った。
「治療の前に、転移がないか全身の検査をしましょう」
「転移……」
亜希子は呟く。ハユンは亜希子を気に掛けたあと聞く。
「転移とは、胸以外もがんかもしれないということですか」
「はい。そうです」
石川医師は二人を見て明確に言った。
「全身MRIをする必要があります」
「転移があっても治りますか」
ハユンは夢であって欲しかった。
「それは、検査をしてみないと……とりあえず、今日は全身MRIの予約をして行って下さい」
「わかりました」
亜希子は気を確かに持って答えた。
帰りの車の中。ハユンと亜希子は沈黙の中にいた。
ハユンは右折をしようとウインカーを出す。ウインカーのカチカチカチカチ……という音が、二人を責め立てるように響いた。
なかなか右折が叶わず、ハユンは苛立ちを覚える。その様子を敏感に感じ取った亜希子。
「ハユンさん」
いつも持ち歩いているチョコレートを一粒バッグから取り出し、ハユンの口に入れる。
「苛立って悪かった」
「ううん」
亜希子は少し微笑んだが疲れを隠せない。
「ハユンさん、きっと大丈夫よ。転移はしてない」
微笑む亜希子。
「……そうだな」
ハユンは転移など信じたくない、という心情で呟いた。命に関わる病だなんて信じたくなかった。
「ハユンさん、ちょっと疲れちゃった。運転中に悪いんだけど、少し眠って良い?」
亜希子は車窓に流れる景色を眺めながら、か細い声で聞いた。
「ああ、ゆっくり休んで。気にすることはない」
「ありがとう。ごめんね」
亜希子はそう言うと、眠りに落ちていった。
ハユンは、亜希子がいつもどんなに眠くても自分が運転しているうちは我慢して起きていることを知っていた。相当心労があるのだと慮った。
信号待ちになり、ハユンはブランケットを亜希子へ掛けた。静かで安らかな寝顔を見て安心とともに未知の未来への恐怖と戦っていた。
ハユンはある駐車場に車を停めた。そして眠っている亜希子の顔を優しく撫でた。深い眠りなのだろう。起きる様子はない。
ハユンは一人で車を降りた。そこは、カトリック市川教会の駐車場だった。人影もなく控えめに佇む教会の中へ入ってゆくハユン。
祭壇の十字架に掛かっている痛々しい姿のイエスと対峙して、静かに十字を切るハユン。
一番後ろの長椅子に腰掛けると、暫く目を閉じた。
ハユンは祈っていた。
ハユンは教会を出て車へ乗り込みドアを閉めると、その音で亜希子が目を覚ました。
「ハユンさん」
「ぐっすり寝てたな。さっきはドアを閉めても起きなかった」
ハユンは教区ニュースなどの冊子を亜希子へ渡した。
「取りに来たのね」
「うん、帰ろう。お腹は空いてないか」
「うん。今は何も食べたくない」
亜希子は前を見つめたまま言った。
「食べることは基本だから、夕食はちゃんと食べよう」
そうハユンは言って、車を走らせた。
ハユンは車を走らせながら、カーナビの時計を見た。まだ14時47分か。少し時間があるな、と思った。
しばらく車を走らせると、外を眺めていた亜希子が言う。
「ハユンさん、どこに向かってるの?」
「どこかな」
「えー、どこなの?家ではないみたい」
いつもの景色とは明らかに違っていることに亜希子は気づいた。
「窓の外を見ていて」
ハユンは微笑んで言った。
「ん?何があるの」
「いいから」
亜希子はしばらく言われた通りに助手席から外を眺めていると、生い茂った木々のあとに幕張の海が広がって来た。
「わあー、ハユンさん。海。綺麗」
亜希子は心から感動した。
ハユンは得意げな気持ちで微笑んだ。
亜希子は、きらきらと輝く海と青空を見ながら、こんな日が長く続くといいな。当たり前だと思っていた日常が宝石みたいだな、としみじみ思った。
「少しは気が紛れたか?」
「うん、元気出た。ありがとう、ハユンさん」
そう言うと亜希子は、ハユンさんも辛いだろうに、と思った。
亜希子はハユンのそんな優しさが嬉しかった。亜希子はハユンの横顔をしみじみ見た。亜希子は昔からハユンの横顔が好きだった。この横顔をこの先もなるべく長く見ていたいと、祈るような気持ちになった。
ハユンと亜希子は家に帰り、ハユンは宅配食を電子レンジで温める。電子レンジが低い音で唸っている。ハユンはテーブルで待っている亜希子の隣に座って語り掛ける。
「亜希子」
「ん?」
「大丈夫だよ」
「ん?」
「さっき、神様を脅して来たんだ」
「脅す?」
「うん」
「祈ったのね」
嬉しそうな亜希子。ハユンは照れくさそうに言う。
「そんなとこだな……だから、検査の結果、転移はない」
ハユンはきっぱり言った。亜希子は微笑む。
「そうね。転移はないわ。あなたが祈ったんだから」
「?」
「奇跡が起きたんだから」
亜希子は心強く感じていた。
そこで電子レンジがチンと鳴った。ハユンはレンジから弁当を取り出し、もう一つの弁当をまたレンジへ入れた。そして食器棚から箸を出し亜希子に渡すと、弁当も亜希子の前に置いた。
「ハユンさん先に食べて」
「もう自分を犠牲にしないで」
「犠牲なんてしてないわよ」
「亜希子が食べてる姿を見たい気分なんだ」
「そうなの?」
亜希子は笑って言う。ハユンは弁当の蓋を開ける。と、玄関の鍵を開ける音がした。
「智博だわ」
亜希子が言った。
ハユンは亜希子の箸を持って聞く。
「何から食べたい」
「じゃあ、卵焼き」
ハユンは卵焼きを箸で挟むと、亜希子の口へ運ぶ。
「あーん」
亜希子は口を開けた。その時、リビングに入って来た智博と遭遇する。
「あ」
智博は気まずく思った。
「どうぞどうぞ」
そう言うと智博は背を向けたまま言う。
「夫婦仲の良い両親で、本当に良かったと思ってるよ、ほんとほんと」
そう言って去って行く。
ハユンと亜希子は微笑み合った。そして、ハユンが亜希子に卵焼きを食べさせると、電子レンジがチンと鳴った。
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