第4話 ハユンの正義感
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
千葉理科大学、津田沼キャンパスのオーロラ研究所(プラズマ理論研究)早川研究室にハユンは所属していた。
その日は衛星の定常観測をしていた。データの蓄積を見守る研究室の人々。
次々に現れるデータに夢中になっている早川教授は、思わず立ち上がりカップのコーヒーを床にこぼしてしまった。
床に広がっていくコーヒー。
早川教授は近くにいたハユンに声を掛けた。
「おい」
「おい?」
ハユンは反射的に怒りが湧いた。早川教授はハユンには目もくれず、
「そこ拭いといてくれ」
と言ってデータに近づいてゆく。
「こぼしたのは私ですか?」
ハユンはなぜ自分が床を拭かなくてはいけないのか憤った。
「いいじゃないか、それくらい。早くしろ」
「命令ですか」
「そうだ、命令だ。早くしてくれ」
「命令される謂れはない」
早川教授はハユンに苛立ちを覚えてハユンに近づく。
「君は……チェくんて言ったね」
教授は記憶を辿るようにハユンの名前を言った。
「はい、チェ・ハユンです。おい、ではない」
早川教授は、ハユンを面倒なやつだと見切った。
「誰でもいい、拭いといてくれ」
「自分でやったらどうだ」
ハユンは怒りが治まらなかった。研究室に緊張が走る。
「僕がやります」
研究員の永谷健二が気を遣って申し出、近くにあった雑巾で床を拭いた。
拭きながら永谷は、気にしないで、という気持ちでハユンに目配せをした。
永谷は雑巾を洗いに廊下へ出て行く。ハユンも追って研究室を後にした。永谷を巻き込んで悪いと思ったのだった。
廊下にある流し台へやってきた永谷とハユン。ハユンは永谷に言う。
「僕は拭くのはいいんだ。ただ、あれは人に頼みごとをする態度じゃない。命令も良くない。原因を作ったのは彼だ。それなら自分で責任を取るべきだ」
永谷は雑巾を絞りながら笑顔で頷く。
「わかります。ハユンさんの言う通りですよ」
ハユンは永谷の態度を見て、自分は間違っていたのか自問自答した。
「僕の代わりに拭いてくれてありがとう。申し訳なかった」
とハユンは謝った。永谷は笑顔で言う。
「もう綺麗になりましたよ」
永谷は洗濯ばさみで雑巾を干す。
「ハユンさんの言うことはもっともですよ。……もっともですが、あまり対立すると研究が続けられないかもしれない」
「そんな権限ないだろう」
「わかりません。わかりませんが恐れはあります」
ハユンは憤る。
「なんでも恐れていたら言いなりになるしかない」
永谷は少し微笑んで言う。
「ハユンさんは正義感があって、僕はいつも尊敬してます」
ハユンは戸惑いを覚えた。
「僕はハユンさんが好きだから……色々心配になってるだけです。必ずしも、正義が善とされるとは限らないから」
「……」
ハユンにはあまり理解出来なかった。日本語の理解力の問題か?それとも、自分には見えていないことが、永谷には見えているのか?と、考えを巡らせた。
「戻りましょう」
と永谷は微笑んで、ハユンの背中を軽く叩いた。
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