第3話 ハユンと亜希子の出会い
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
二十三年前。
どしゃ降りの雨の中、澤田亜希子はパンクした自転車を引いて歩いていた。傘もなく泣きそうになりながらも自分を励ましてどうにか歩いた。
二十分ほど歩き、ショッピングモールのサイクルショップへと着いた亜希子。
店員らしき女性の伊藤ゆきを見つけ声を掛けた。
「すみません、パンクしたみたいで。直して貰えますか」
亜希子は涙が出そうなのを耐えながら言った。
「はい。中へどうぞ」
伊藤ゆきが、中へ案内する。
「ありがとうございます」
亜希子はぷるぷる震えながら自転車を中へ入れた。
その様子を見ていた留学生でアルバイトの崔霞潤。亜希子がずぶ濡れなのを見てロッカーからタオルを出す。そして同僚の林翔太に指示を出す。
「これ、彼女に渡して」
「は、はい」
林は亜希子の元へ走って行く。
「これで拭いてください」
「あ、すいません。大丈夫です」
自転車を見に来たハユンが言う。
「風邪を引く。使って」
そっけない口調だったが抵抗出来ない力を亜希子は感じた。
「……はい、ありがとうございます。お借りします」
亜希子は従うことにした。ハユンの日本語のイントネーションに違和感を感じた亜希子は、日本人じゃないのかしらとふと思った。その瞬間、
「くしゅん」
くしゃみをして、そんな疑問も吹き飛んだ。
くしゃみを聞いたハユンは事務所へ戻る。そこへ来た伊藤ゆきに小銭を渡し、
「これでホットコーヒー買って渡して」
と頼んだ。
「わかりました」
伊藤は受け取って買いに走る。
ハユンは自転車の元へ戻ると、黙々とパンク修理を続けた。
亜希子は心細そうにその様子を見ている。
大雨も止む気配がない。
ホットコーヒーを持って戻って来た伊藤が亜希子に差し出す。
「これ、どうぞ」
「そんな、悪いです」
首を振って恐縮する亜希子。黙々と修理していたハユンがぶっきらぼうに言う。
「ここは自由に飲めるんですよ、コーヒー」
「そうなんですか?」
亜希子は目を丸くして伊藤ゆきに聞く。
「ええ、そうです。だからどうぞどうぞ」
伊藤ゆきは話を合わせて答えた。亜希子はそれでも恐縮していた。
「早く飲んで」
ハユンの言葉はやはり絶対的な響きがあり、亜希子は素直に従うことにした。
「すみません。有難くいただきます」
亜希子は両手で大事に抱えたコーヒーに口をつけた。本当に安心するあたたかさだった。体の芯からあたたまるのを感じた。
修理が終わると、亜希子と伊藤ゆきがレジで会計を済ませる。
事務所から出て来たハユン。
「傘がないなら、これを使って」
持って来たネイビーの傘を亜希子に差し出した。
「本当に大丈夫です」
亜希子は申し訳ない気持ちだった。
「こんな雨なのに?」
ハユンは冷静に言った。ハユンと亜希子は同時に空を見上げる。やはり止みそうにもない大雨だった。
「……」
ハユンは少し微笑んで言う。
「これは忘れ物で、誰も取りに来ないから捨てるところでした。ちょうど良かった」
「そうなんですか……」
それでも躊躇している亜希子。ハユンは素っ気なく言う。
「じゃあ、捨てるしかないか……」
「そんな……それなら……」
亜希子は傘を受け取った。
「ありがとうございました。助かりました」
伊藤、林、ハユンにそれぞれお辞儀をする亜希子。
受け取った傘を差して歩き出す。振り返り、再度お辞儀をして足早に帰って行く亜希子。
三人は仕事場へ戻って行く。
「それにしても凄い雨ですね」
林はそう言って、片付けし出す。
閉店準備に掃除をする三人。
ハユンは雨の降りが静まったのを見計らって言う。
「二人とも帰るなら今かもしれない」
「じゃ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー」
と、伊藤と林は帰って行った。
ハユンは最後に店の鍵を閉めて店をあとにする。が、外へ出たら雨足がまた強まっている。
ハユンは両手をパーカーのポケットに突っ込んで仕方なく足早に歩いて行く。
「あの」
女性の声がした。ハユンが振り返ると、赤い傘を差してくれる女性。それは亜希子だった。一度家に帰り、着替えて傘を返しに来たのだった。
「傘、先程はありがとうございました」
「……」
ハユンは無言だった。
「これ」
亜希子から差し出されたネイビーの傘を受け取ったハユンは傘を広げて入る。
「やっぱりあなたの傘だったんですね」
亜希子は声を弾ませて言った。
「いや……」
ハユンは少しバツが悪かった。
「私のために、ありがとうございました」
亜希子はお辞儀をする。
「いえ」
「あの、崔さんて仰るんですか?」
「どうして」
「傘に刻印が」
ハユンは物を大切にするタイプで、柄に名前の刻印をしていたのを思い出した。
「メーカーの名前か、名字だと思って」
「そうです。チェと読みます。韓国人なので」
「そうなんですね!今日は本当にありがとうございました。良かったです。戻って来て」
ハユンは照れくさかった。感謝はしてもされるのは苦手なタイプだった。
「タオルを貸してくださった方と、コーヒーをくださった女性にもありがとうございました、とお伝えください」
亜希子はそう言って、再度お辞儀をした。
「わかりました」
ハユンがそう言うと、一瞬の沈黙ののち亜希子は微笑んで言う。
「じゃ、失礼します。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
ハユンは帰っていく亜希子の背中を少し見送り、亜希子と反対の方向へ帰って行った。
亜希子は勤務先の「本の森書店」で新刊を並べていた。店長の柿田幸司が指示を出す。
「澤田さん、POPもう少し高い位置にしてくれる?経済書だから男性の身長に合わせて」
「はい。わかりました。あ、でも、女性も読む人はいると思うので、上と下両方に置きますね」
「よろしく」
亜希子はPOPの位置を直して本を並べて行く。
亜希子が本を並べ終えて一息ついていると、
「澤田さん」
と柿田店長が呼んで退社を意味する仕草をした。亜希子は会釈して踵を返すと、歩いて来た男と接触する。
「きゃ」
落ちる漫画雑誌。亜希子は咄嗟に、
「すみません」
と謝って漫画雑誌を拾うと、ハユンが立っていた。
「あっ……」
ハユンと亜希子は驚いた顔をした。
「大丈夫ですか?」
ハユンは亜希子を気遣った。
「こちらこそ、すみません。不注意で」
「いえ、じゃあ」
ハユンが帰ろうとする。
「あの、」
亜希子が引き止める。振り返るハユン。
「今、仕事が終わったんです」
「そうですか。お疲れ様です」
ハユンは素っ気なく言った。
「あの、この後お時間ありますか?」
「時間……」
ハユンは腕時計を見る。
「ええ、少しは」
亜希子は勇気を出して言う。
「カフェに行きませんか」
「なぜ」
ハユンはカフェに行く理由がなかった。
「この前のお礼がしたくて」
「お礼はいらない」
「でも……」
「……」
ハユンは不思議そうに亜希子を見つめる。なぜ、この女性は自分とカフェに行きたいんだろう。
「えーと、」
亜希子は困って黙ってしまう。ハユンは亜希子の困った顔を見て気が変わって言う。
「そのカフェはどこですか」
「歩いてすぐそこなんですけど……」
「あなたを待っている間にこれ読んでていいですか?」
ハユンは漫画雑誌を見せて言った。
「もちろんです」
「着替えが必要でしょう?」
ハユンは亜希子の制服姿を見て言った。
「そうですね。すぐ着替えて来ます」
「焦らなくて良いですよ。焦ると危ない」
ハユンは辺りを見回して、空いているテーブルとベンチがあるのを見つけた。
「あそこで待ってます」
「わかりました。じゃあ後で」
亜希子は会釈して小走りに事務所へ向かう。
ハユンはテーブルにつくと、漫画雑誌を夢中になって読み出した。
亜希子とハユンは近くにある「ペイズリー」というカフェへ来た。中へ入ると亜希子が先導する。
「このカフェはケーキも美味しいんですよ。ケーキを注文するとコーヒーが無料なんです。私はチーズケーキにします」
亜希子はチーズケーキを一つ選んでレジへ。ハユンも続いて、チョコレートケーキを選んでレジへ。亜希子が店員に言う。
「会計を一緒で」
「いや、別で」
ハユンは咄嗟に言う。
「お礼させてください」
と言って微笑む亜希子。
「傘のお礼はしなくて良いとさっき」
「これはカフェに来てくださったお礼です。気持ちですから受け取ってください」
「……ありがとうございます」
ハユンは仕方なく受け入れることにした。会計を済ます亜希子。
窓際の空いてるテーブルに座るハユンと亜希子。
「チョコレートケーキがお好きなんですか?」
「はい。チョコレートは人類が生み出した食べ物で一番偉大だと思っています」
「偉大?……ふふ、そうなんですね」
亜希子は微笑んでコーヒーを一口飲んだ。
「あ、私は澤田亜希子といいます。チェさんですよね。下のお名前聞いても……良いですか?」
「はい。ハユンです。チェ・ハユン」
ハユンはカバンから一枚のカードを取り出した。学生証だった。
「見ても良いんですか?」
「はい」
「千葉理科大学……そこの、千葉理科の学生さんなんですか」
「はい」
亜希子は目を丸くして言う。
「物理……って書いてありますけど……」
「はい。オーロラの研究をするために留学しています」
「そうなんですか。物理……」
亜希子は学生時代、物理がまるで理解出来なかったことを思い出して尊敬の念を抱いた。
「チェさんと呼べば良いのかしら」
「ハユンでも良いですよ」
「馴れ馴れしくないですか?」
「韓国では名前で呼ぶのは普通です」
「じゃあ、ハユンさん、とお呼びしたら良いですか」
「はい。澤田さんの好きなように」
「ありがとうございます」
亜希子は、自分は下の名前じゃないんだな、とふと思ってコーヒーを一口飲んだ。
「ハユンさんは……なぜ日本の大学に留学を?すみません、質問ばかりして」
「スラムダンクが好きで。日本語も漫画で覚えました」
「スラムダンクってバスケットボールのお話ですよね」
「そうです。偉大な漫画です」
ハユンさんは偉大という言葉が好きなんだな、と亜希子は思った。
「バスケ部だったりします?バスケットボール部」
「中学、高校はサッカー部でした。バスケットボールはあまりしたことありません」
少しおかしくて、笑うハユンと亜希子。
ハユンはコーヒーを一口飲んで言う。
「澤田さんは、」
「はい」
「本が好きであの本屋さんに?」
ちょっと複雑な表情をする亜希子。
「……はい、本は好きです」
「そうですか」
「大学は音大……音楽大学だったんですけど就職出来なくて……本屋さんはアルバイトです」
「そうですか」
「バイオリニストを目指してたんですけど諦めました」
「諦めなくて良いのに」
「そうですね。でも限界が見えて」
笑顔を見せる亜希子。ハユンはなんだか悲しくなる。そんなハユンの表情に気づく亜希子。
「でも、自分の中で納得出来たから良いんです」
ハユンは察して深くは聞かないでおいた。亜希子は意を決して言う。
「あの、お願いがあるんです」
「?」
「無理にとは言わないんですけど、ハユンさんにお時間ある時で良いので、韓国語を教えて貰えませんか?」
「……」
「ちゃんと、お礼はします。一回三千円くらいだと、ありがたいんですけど」
ハユンは少し考えて言う。
「……僕は悪い人間かもしれませんよ」
「そうなんですか?」
亜希子には意外な言葉だった。
「雨に自分の傘を渡してくださる方が?」
ハユンは少し微笑んで言う。
「悪人ではないかもしれないけど……そんなに良い人間ではないですよ」
不思議そうな亜希子。
ハユンは真剣な顔で言う。
「澤田さんに傘を渡す時も嘘をついた……」
ハユンの言葉に、亜希子はなんとも言えない気持ちになった。
「ハユンさんは良い人です」
「人として当たり前のことをしただけですよ」
「当たり前なことを出来ない人だってたくさんいるじゃないですか」
亜希子は少しムキになって言った。ハユンの嘘が、自分への優しさだったと確信していたからだ。
「そういう人は臆病なんです。良い人でいたいのに出来ない。でも、人は本質的に良い人でいたいものでしょう……そうとは限らないのかな」
ハユンは自説に少し不安になった。
「僕は誇れる自分でありたい」
ハユンはきっぱりと言った。
「……でも、たまに上手く行きません」
ハユンは少しはにかんで見せた。
「私もそうです」
ハユンと亜希子は微笑み合った。ハユンは何度か頷いて言う。
「良いですよ。あなたの韓国語の先生になります。でもお金はいりません。アルバイトならお金持ちなわけではないでしょう」
「そうですけど……」
亜希子は悪い気がして戸惑った。ハユンはまっすぐ亜希子を見て言う。
「一つお願いがあります」
「なんですか?」
「僕は、家と大学の往復で住んでいる千葉をよく知りません」
「はい……」
「だから、色々な所に一緒に行って欲しい」
「はあ……」
「ダメですか?」
「いえ……デートみたいですね」
「彼氏彼女ではないからデートではないです」
「そうですね……わかりました。ありがとうございます。よろしくお願いします」
ハユンはカバンからノートを取り出して破り、何かをメモしている。
「これ、私の電話番号とメールアドレスです」
「はい」
「今掛けられますか?」
「はい」
亜希子は携帯電話をバッグから取り出してハユンの電話番号を入力し発信した。
ハユンの電話が鳴る。携帯電話に亜希子の番号が表示される。
「これで連絡出来る」
「そうですね。良かったです」
亜希子はコーヒーを一口飲んだ。
「あ、あの、たとえば、カフェって韓国語ではなんて言うんですか?」
「カペ(카페)、カペです」
「かぺ?」
「はい」
「なんかかわいいですね」
微笑むハユン。
「じゃあ、これは?」
亜希子はコーヒーを指差す。
「コピ(커피)、コピです」
「こぴ?かわいいー」
亜希子は韓国語を勉強するのが楽しみになった。ハユンはそんな亜希子を見て無邪気な人だな、と思った。
亜希子は思いついて聞く。
「あの、韓国語勉強するにあたって、何かテキストとか辞書とか必要ですよね?」
「そうですね。……良かったら、これからテキストを買いに行きましょう。時間ありますか?」
亜希子は壁時計を見ると、18時を過ぎたところだった。
「大丈夫です。ハユンさんは」
「僕から誘ったんだから大丈夫ですよ」
「そうですよね」
亜希子は照れ笑いをした。
「本の森書店」に戻って来たハユンと亜希子。亜希子は同僚に会うのが気まずいと思って躊躇したが、近くに書店がここにしかなかった。
どこにどの本が配置されているか、亜希子はよくわかっている。語学のコーナーへ案内する亜希子。
「ハユンさん、ここです」
韓国語の棚を見るハユンと亜希子。
「澤田さんっ」
一つ年上の同僚の女性、三木ひじりが亜希子に声を掛けた。亜希子は、やっぱり同僚に見つかってしまった、と思った。
「ねえねえ、もしかして彼氏?」
「えっ、違います」
ハユンにも聞こえたらしく、
「違いますよ。知人です」
と、ハユンはきっぱりと否定した。
「そうなんだ、ごめんなさいね」
三木は会釈して、
「ごゆっくり~」
と去って行った。
「すみません」
亜希子はなぜかハユンに謝っていた。
「いえ」
ハユンはなぜ謝るのか分からなかったが、それよりもテキストを選ぶのに熱中していた。候補をパラパラめくっていくハユン。「韓国語入門」という一冊の本に手を止めた。
「これが良いかもしれない」
「はい」
「書き込めるし。やっぱり実際書かないと、読んだだけでは覚えないから」
亜希子はハユンからテキストを受け取って中をパラパラと眺めた。
「いいですね」
「こっちに綺麗なのがありますよ」
ハユンは奥にある本を指差した。ハユンが持っていた本は、色々な人が手に取ったからか、表紙が少し破れていたのだ。
「私はこれが良いです」
「どうして。ここが破れてる」
「だからです」
「?」
ハユンは意味が分からなかった。
「これはきっと誰も買わないと思うから」
「……」
「私は本にも命があるみたいに思うんです。でも、こういう本て出版社に返品して廃棄されちゃうんです」
「そうなんですか……」
「買ってきます」
亜希子はテキストを大事に抱えて、レジへと向かった。
ハユンは大切な人に出会ったような気がして亜希子の背中を見つめた。
お読みいただきありがとうございます。
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今後ともよろしくお願いいたします( ơ ᴗ ơ )




