第2話 弟シウを迎えに行くハユン
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
一年後。
ハユンは成田空港の到着ロビーで、弟のシウ(時優)を待っていた。千葉理科大学への留学を機に、シウはハユンの家で居候をすることになっていた。
人々の中からシウが姿を見せる。
「シウ!」
ハユンが手を振るとシウは気づいて駆け寄って来る。韓国語で話すシウ。
「兄さん、久しぶり」
「おお、久しぶり。よく来たな」
シウの肩を揺さぶって嬉しそうなハユン。
「疲れただろう」
「ううん、大丈夫だよ」
「そうか」
ハユンは周囲の目を気にして言う。
「そうだ、シウ。出来るだけ日本語を喋ろう。勉強して来たんだろ?」
「うん」
ハユンは日本語で話し出す。
「ここは日本だから、日本語の方がいい。韓国語を話してると日本人は不安になる。何を話してるかわからないから」
「悪口かもしれないと?」
「喋れるじゃないか。そう、悪口かもしれないと。人間は悲観的な生き物だから」
「ひかんてき?」
シウは首を傾げる。ハユンは韓国語で言う。
「ビグアンジョ(비관적)」
「ああ、そうだね」
「逆の立場でもそうだろう」
「うん」
シウの荷物を持つハユン。
ハユンの車のトランクに荷物を入れると、シウを助手席に乗せる。家へ向かうハユンとシウ。
ハユンが韓国語で話し出す。
「しかし、お前が学者になるのか」
「うん。二人だから韓国語でもいいのかな、やっぱり安心するね」
「俺も久しぶりに話した。よく母さんを説得したな」
「日本に来ること?」
「うん」
「大変だったよ。お義姉さんがあんな目に遭ったんだからわからなくもない」
シウは顔を曇らせた。ハユンもシウの沈む顔を見てしみじみ言う。
「そうだな……」
信号に捕まると、ハユンは遠くを眺めた。信号が青に変わると、ハユンは気を取り直して言う。
「生命科学なら韓国でも研究出来ただろう」
「兄さんがいるからに決まってるじゃないか」
「そうなのか」
「六歳で兄を亡くしたようなもんだよ。悲しい話だよ。おかげで学校のテストは教えてくれる人がいなかった」
「俺より頭良いだろう?」
シウは照れて微笑んだ。
「兄さんが刑事になると思わなかった。学者になると思ってた」
「シウが俺の代わりに叶えてくれたな」
シウは満足そうに外の景色を眺める。そんなシウをハユンは誇らしく思いながら言う。
「安定と言えば公務員だ。韓国でも日本でも」
「そうだね」
「だから警察官になった。テコンドーで賞をもらっていたのが良かったんだろう」
シウも兄のハユンが誇らしかった。シウが遠慮がちに言う。
「お義姉さんがあんなことになって……僕でも皿くらい洗えるから」
ハユンは遮るように言う。
「皿洗いは前から俺の仕事だ。そうだな、料理と洗濯、掃除が空いてるぞ」
シウは目を丸くして日本語で呟く。
「ちょっと多くないですか?」
笑うハユンとシウ。
シウは目の前にぶら下がっているロザリオに気づいて聞く。
「兄さん、教会には行っているの?」
ハユンは険しい表情になる。
「それは亜希子のだ。洗礼は受けてないが教会やこういうものは好きらしい……ミサには一年行ってない」
「……」
シウは察した。
「思い出したから教会に寄る」
ハユンはそう言うとハンドルを切った。
カトリック市川教会の駐車場に車を停めるハユン。二人は車を降りる。
教会の中へ入る。シウは十字架のイエスに一礼し、ベンチに座して両手を合わせる。
ハユンは教区ニュース等冊子を一通り手にすると、
「車で待ってる」
と言って教会を出て行く。その背中をシウは切なく見送った。
ハユンの車へシウが戻って来る。車に乗り込んでシートベルトを締めると、シウは遠慮がちに言う。
「兄さんはやっぱり……」
ハユンは察した。
「俺は祈らない……祈れないんだ」
「……」
シウは何も言えない自分に無力感を感じた。
ハユンの家では、主にリビングのベッドで過ごす亜希子を見舞いにアメリカ人の七十代のベック神父が来ている。事件があってから、ハユンの計らいで週一度雑談をしにやって来るのだった。
亜希子の首にはハユンからもらったアクアマリンのネックレスが光っている。
「神父さま、質問してもいいですか?」
「なんでもどうぞ」
ベック神父は優しい声で答えた。
「神父様は、日本にずっといて、淋しくないですか?」
ベック神父は少し考える。
「夫も生まれた国へ帰れなくて淋しくないかと心配なんです」
ベック神父は二度小さく頷いて優しく語りかける。
「まず、私のことを話しますね。私は、アメリカの貧しい地域で育ちました。ヒスパニック系の移民も多かった。犯罪も多いです」
「はい」
「でも、みんな信仰心厚いです。困った人を見ると助けるんですね。父は軍人でした。日本と戦争しました。でも、父は日本が憎い訳ではなかった。私が子供の頃、日本の話を良く聞きました。私は、どうして僕に話すのか分からなかった。私が神父として日本へ派遣されると知って父は泣きました」
亜希子は胸が詰まった。
「父は、日本人のために奉仕しなさいと言いました」
「はい」
「戦争はただの悲劇です。私は父が大好きですから、平和のためになるなら喜んでやります」
「はい」
ベック神父は亜希子に微笑んだ。
「旦那さんのことでしたね。きっと、私が思うに、あなたに出会ったことで生まれ変わったのでしょう。私には旦那さんの気持ちはちゃんとはわかりませんが、自分より大切なものが出来たら、人は変わります」
「……」
亜希子はよく聞き取れず首を傾げた。
「でも、電話くらいしたらいいです。今は顔みて話せるでしょう?」
ベック神父は茶目っ気のある目で言った。
「そうですね」
亜希子は微笑んだ。
「また来週会いましょう」
ベック神父は杖を駆使して立ち上がる。
「今日もありがとうございました」
亜希子は会釈をする。
ベック神父が玄関へ行くと、智博が帰って来た。
「トモヒロくん!」
ベック神父は嬉しそうに声を上げた。
「神父さま、こんにちは」
智博は帽子を取ってお辞儀をする。
「久しぶりですね。元気でしたか」
「はい」
靴を履くベック神父の杖を持ち、身体を支える智博。ベック神父は問う。
「せいしゅんしてますか?」
「えっ?あ、はい」
「いい事ですね。それでは。また」
杖をついて帰って行くベック神父。
しばらくすると、ハユンとシウも帰って来る。
「ただいま」
「おかえりなさい、ハユンさん。シウさん、疲れたでしょう」
「こんにちは。お義姉さん、お久しぶりです」
「この家は自由に使ってね」
「ありがとうございます」
シウは深く頭を下げた。
ハユンが智博に言う。
「智博、シウを案内して」
二階のシウの部屋へ案内する智博。
「これ、今週の分だよ」
ハユンは教会でもらった冊子等を亜希子に渡す。
「いつもありがとう」
亜希子は笑顔で受け取ると、少し顔を曇らせて言う。
「……ハユンさん、貰いに行くの苦痛じゃない?」
「大丈夫だよ。どうして」
「ううん」
亜希子はハユンを気遣って言った。
ハユンも亜希子を気遣った。
「気にしないで」
「さっきまで、ベック神父様、来てくださってたのよ」
「良かったな」
ハユンはそっけなく言う。その反応に淋しそうな亜希子。ハユンは亜希子の顔が曇るのに気づき、話を聞くことにする。
「どうだった」
「やっぱり、何言ってるかはよく分からなかったんだけど……毎週来て下さるのがありがたいなって。雨の日でも雪の日でも来て下さるから。私、お茶も出せないのに」
「……そうだな」
ハユンは優しく微笑んで言った。
「落ち込んでる時に来て下さると、外国で頑張ってる神父様見ると、私も元気出る」
ハユンは少し顔を曇らせた。
「……落ち込んでる時があるなら、僕にまず言って」
「やだ、ハユンさん。神父様に嫉妬してるの?」
照れるハユン。亜希子は少し笑う。
「神父様って凄いわよね。最初は言葉もわからないでしょ?それに家族も居ない外国で働くなんて……私には出来ない」
静かに微笑むハユン。
「そうだな」
亜希子は真剣な顔で言う。
「あなたもそうよ」
ハユンはハッとして亜希子の顔を見る。亜希子は呟く。
「尊敬してる」
ハユンは良く考えて口を開く。
「……本当は教会へ行きたいだろう」
「ううん、毎週神父さまが来てくださるから十分よ」
ハユンは複雑な感情を抱く。亜希子は自分が教会へ行く気になれないのを感じ取ってそう言っているに違いない。いつも気遣いを忘れない亜希子だから。
亜希子は努めて明るく言う。
「私は感謝しているのよ。神様にもあなたにも」
気持ちを整理出来ないハユン。感謝しているとはどういうことなんだろう。
「ごめんね」
と言って涙ぐむ亜希子。
「なんで亜希子が謝る」
「あなたに悲しい思いさせたなって思って」
「一番悲しいのは亜希子だろう」
「私は……」
ハユンをじっと見つめる亜希子。
「不思議ね、そんなに悲しくないの」
「無理するな」
「ううん。あなたと結婚する時に、これから私の身に起こることは全て受け入れます、て誓ったから」
「……」
「だって結婚するまで大変だったじゃない、私たち」
目を伏せるハユン。
「それを考えたら、私はハユンさんと一緒に居られるだけで幸せよ。今、本当に幸せなの」
瞳を潤ませる亜希子。
どうしてそう思えるのだろう、とハユンは思った。昔から亜希子は善良過ぎて心配になるほど善良なのだ。
ハユンも亜希子のいるベッドへ入ると、亜希子を優しく抱きしめた。ハユンは不安ながら亜希子に聞く。
「俺と出会って本当に良かったか?」
「うん。そんなこと聞かないで」
「こんな目に遭ったのに」
「私は今までも今もこれからも幸せよ」
亜希子からもハユンを抱きしめて言う。
「頭、なでなでして」
ハユンは愛しそうに亜希子の頭を撫でる。
激しい雨の音に気づいて、窓の外の雨を見つめる亜希子とハユン。
あの日、雨が降っていたから……私たちは出会った。
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