第1話 結婚記念日の事件
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
その日はハユンと亜希子の結婚記念日だった。
韓国出身の崔霞潤は鏡を見ながら自分でネクタイを締めていた。化粧をしていた妻の亜希子が、
「ハユンさん、私にさせて」
ネクタイを手にして言った。
「自分で出来るよ」
ハユンは断った。
「今日はしてあげたいの。結婚記念日なんだから」
ハユンは仕方なく亜希子に任せることにした。
ネクタイを締め終えると、亜希子は赤とラベンダー色のストールを手にして聞く。
「どっちがいいかな?」
亜希子は肩に掛けてみては鏡に映して悩んでいる。
「よくわからないからなあ」
ハユンは首を傾げた。
「どうしよう」
困っている亜希子。
「赤の方がいいんじゃないか」
ハユンは率直に言った。
「こっち?」
亜希子は赤のストールを肩に巻いて見せた。
「でも、ちょっと派手じゃない?」
亜希子は納得していないようだった。ハユンは呆れつつも可愛いと思って微笑んだ。
ハユンは赤とラベンダーのストールを亜希子の顔に近づけて真剣に考えた。
「やっぱり、こっちかな」
と赤いストールを選ぶ。やはり亜希子は納得いかない表情でラベンダーを顔に近づけた。
「こっちじゃだめ?赤はちょっと恥ずかしい」
亜希子はそう甘えて見せた。
「両方似合ってるからこっちでも大丈夫だよ」
とハユンは言った。
亜希子は嬉しそうにラベンダーのストールを肩に掛け、バッグの中に荷物を入れ出した。
ハユンは、ポケットに入れてあったジュエリーケースを確認して少し微笑む。
そこへ大学生の智博が両親の部屋へ顔を出す。
「まだ行ってなかったの?レストランの予約八時でしょ?」
「そうよ。もう行くから大丈夫よ」
と亜希子が言った。智博は気になる様子で言う。
「結婚記念日って言ってあるの?レストランに」
「言ってないよ」
とハユンは答えた。
「言えばケーキとか出てきたんじゃねーの?それにお父さん、手ぶらなの?花束とかないの?」
「ん?」
ハユンはとぼけた顔をしている。
「プレゼント。お父さん、プレゼントくらい用意しようよ」
亜希子は気遣って、
「いいのよ、一緒に食事出来るだけで。お父さん忙しいのに今日仕事休んでくれたんだから。ねっ」
と亜希子はハユンに微笑んで見せた。
「鍵しっかり閉めてね、暖かくして寝てね」
亜希子はそう言ってハユンと一軒家の玄関を出る。
「いくつだと思ってるの」
智博は呆れたように言った。
「ハタチなんてまだ子供よ、じゃあね」
駅へ向かって歩き出すハユンと亜希子。
亜希子はハユンの腕を抱く。腕を組んだ二人は微笑み合って歩いてゆく。
五十メートルほど歩いたところで亜希子が言う。
「ハユンさん、先行ってて」
「?」
「ストールやっぱり赤にするわ。あなたが選んでくれた色だものね。すぐ戻るから」
小走りに家に戻る亜希子。微笑んで見送り、ゆっくり歩き出すハユン。空を仰いだ時だった。
「キャー」
悲鳴が住宅地に響く。
ハユンはすぐに亜希子の声だと気づいて自宅へ走った。
見知らぬ男に背後からナイフで刺された亜希子は、どうにか自宅のドアを開けようとするが鍵が掛かっていて入れない。その間にも執拗に亜希子を刺す男。
駆けつけたハユンが、男の足元にスライディングして亜希子から離し、ナイフを取り上げて二発殴りつけた。その時、ハユンは男の顔を見て、
「お前」
と憎しみを込めた声で呟いた。
ハユンには見覚えのある顔だった。サイトウアツシだ。数週間前に傷害罪で逮捕され、刑事であるハユンが取り調べを担当し、示談ののち不起訴になったと聞いていた男だった。
取り調べの時にサイトウの胸ぐらを掴んで罵倒している場面が、ハユンの脳裏に蘇った。
我に返ったハユンは、サイトウアツシの胸ぐらを締め付けた。
外に出てきた智博が、手に持っていた携帯電話で救急車を呼んだ。
千葉第二病院に救急車で運び込まれる亜希子。意識が朦朧としている。心配そうに付き添うハユンと智博。
亜希子はICUに入って行く。入口で看護師に止められるハユンと智博。
心配そうにICUのドアを見つめるハユンと智博。ハユンは気を確かに持って言う。
「智博、ちょっと行ってくる。任せたぞ」
「お父さん……」
いつもは生意気な智博が心細く呟いた。
「これを」
ハユンはポケットからジュエリーケースを取り出して智博に渡す。
「大丈夫、絶対助かるから」
ハユンは気丈にそう言って病院を去る。
タクシーで船橋北警察署に駆けつけるハユン。取り調べ室に一目散に入って行く。
取り調べ室に入って来たハユンは、サイトウアツシの胸ぐらを掴み上げる。
「待て崔」
同僚の刑事、遠藤武史に引き離される。
「なぜ、俺を狙わなかった。俺を憎んでるなら俺をやればいいだろ」
ハユンは怒りとも切なさとも取れる声で言った。サイトウアツシは冷笑的な態度で言う。
「刑事さんをやろうと思いましたよ。でも綺麗な女の人と仲良く歩いて来たから……やっぱり奥さんでした?」
ハユンは遠藤の手を振りほどこうとするが遠藤に阻止される。その様子をサイトウアツシは冷ややかに見ている。
「愛する奥さんが暴力振るわれるってどんな気持ちなんだろうなあ。俺、独身なんでわかんないんですよ」
ハユンは怒りを押し殺して言う。
「卑怯だろ。弱い相手を選ぶなんて」
サイトウはニヤリとして、挑発するような目つきで言う。
「憎い相手が一番ダメージくらう方法って何か知ってます?」
ハユンは厳しく言う。
「言え」
「そいつにとって一番大切な人間を傷つけることですよ」
サイトウは笑いが止まらない。
ハユンは遠藤の手を振りほどいてサイトウの胸ぐらを掴んだ。遠藤は再度ハユンを止める。
「崔、外に出さなきゃいけなくなる。わかってくれ」
落ち着こうとするハユン。
それを見て、サイトウアツシは調子づいて言う。
「ほら、言った通りでしょ?あんたねえ、俺になんて言ったのか忘れたのか。人間のクズだなんだって言いやがって。それでよく恨まれないと思ったな!」
遠藤が口を挟む。
「どうして家がわかったんだ」
サイトウはハユンを睨みつけて言う。
「そこの人、気づきませんでした?ここから家まで付いて行ったんでね」
そこへ同僚刑事の伊藤潤二が取り調べ室に入って来る。
「崔さん、崔さんは取り調べから外されることになりました」
遠藤がハユンの肩を抱いて言う。
「俺たちを信頼してくれ」
「分かってます。よろしくお願いします」
ハユンはそう言うと、頭を下げて力なく廊下へ出て行った。
千葉第二病院のICUの廊下で智博は祈っている。そこへハユンが戻ってくる。
「お父さん!」
「亜希子は」
「今、手術してる」
「一人にして悪かった」
ハユンは智博の肩を抱いて言った。
「これ」
智博はハユンから預かっていたジュエリーケースを返す。ケースを開けるハユン。ネックレスが入っている。
「お母さんへのプレゼント?」
頷くハユン。
「アクアマリンだ。三月の誕生石らしい」
智博は縋るような気持ちで言う。
「お母さん元気になってつけられるよね?」
ハユンは振り絞るように言う。
「……大丈夫だ」
ICUから医師が出て来る。ソファから立ち上がるハユンと智博。
「崔亜希子さんのご家族ですか」
「そうです」
ハユンは身を乗り出して答える。
「命に別状ありません」
医師の言葉に安堵する智博。ハユンにしがみつく。
「ただ、」
医師は口ごもる。
「ただ?なんですか?」
懇願するような心情のハユン。
「脊髄を激しく損傷しています。最悪な結果も覚悟していて下さい」
「最悪とは?」
ハユンは不安げに聞く。
「下半身不随です」
「はい?……」
「歩行や起立は難しい可能性があります」
智博が聞く。
「歩けなくなるかもしれないってことですか?」
「そうです」
医師はきっぱりと言った。
智博は気を確かに持って聞く。
「どのくらいの確率なんですか?」
「歩けるようになる確率は……10%ほどです」
ハユンの頭に衝撃が走った。ハユンは怒りに任せて医師に言う。
「治すのがあんたたち医者の仕事だろう!」
「お父さん」
ハユンを止める智博。
「最善は尽くしました。命が助かっただけでも幸運だったと思って下さい」
医師は小さく会釈してICUに戻って行く。
呆然と立ち尽くすハユンと涙目の智博。廊下に二人の影が伸びる。
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