第32話 赦されてきた日々
この物語が、降り止まない雨の中にいるあなたの一本の傘になれますように
ハユンは勤務を終えると、鯛焼きを買って家路につく。
「おかえりなさい」
ベッドにいる亜希子が声を掛ける。
「買って来たよ」
ハユンはそう言うとベッドに腰掛けた。
ハユンは鯛焼きを袋から出し、割ろうとする。
「私にやらせて」
亜希子はねだる。
ハユンが鯛焼きを亜希子に渡すと、亜希子は半分に割って頭の部分をハユンに差し出した。
「はい」
戸惑うハユン。
「ハユンさん、いつも私に頭ばかり渡して来たでしょ?」
「……」
「私だってしっぽ食べてみたかったのよ?あなたが頭を美味しそうに食べるところ、私だって見たかったんだから」
「そうなのか」
ハユンは鯛焼きの頭を食べる。
亜希子はその姿を嬉しそうに眺めた。
「あとね、ハユンさん、これ、智博に買ってきてもらったんだけど……」
亜希子はクリスマスツリーのオーナメントを見せた。
部屋には既に大きなクリスマスツリーが飾ってある。
「最後のクリスマスだと思うから、なるべくたくさん飾りたくて」
「そうか……」
ハユンは立ち上がり、受け取ったオーナメントをつけようとする。
亜希子が指示を出す。
「もう少し、右上」
「ここか?」
「うん」
ハユンが飾りをつける。
ハユンが部屋の電気を消すとツリーの電飾が浮かび上がる。
「綺麗」
亜希子は呟く。
ハユンがベッドに腰掛ける。
「私、まだ『綺麗』って思える心があるみたい」
ハユンは微笑む。
気づくと涙を流している亜希子。
いつも気丈な亜希子の涙に、ハユンは動揺した。気づくと抱きしめていた。
「あのね、私、今日、色々考えたんだけど……無理にとは言わないけど……もし、良い人がいたら、再婚してね。智博も成人してるし理解してくれると思うの」
「どうしてそんなこと言うんだ」
「私が居なくなるのは、分かってることでしょう?」
「俺を棄てるのか」
ハユンは珍しく感情的になった。
「近いうちに居なくなるのよ、私。ハユンさんを一人にするのが心配なの。ハユンさんには言ってなかったけど……日々弱っていくのがわかるの」
ハユンは感情的になった自分を恥じた。亜希子が自分よりハユンのことを心配していることに苛立ったのだった。
「怒って悪かった」
「お願いがあるの」
「?」
「私が死んでも、神様を憎んだりしないで」
「……」
「私ね、思うの。神は都合のいい存在じゃないって。あなたと出会わせてくれたことが贈り物なら、こうなったのも贈り物なのよ、きっと」
「……」
「だから、もう憎まないで」
「……違うんだ」
「?」
「あの時、教会へ行かなくなったのは、神を憎んでいたんじゃないんだ」
「?」
亜希子は首を傾げた。
「自分がゆるせなかったんだ。亜希子を守れなかった自分をゆるせなかった。結婚した日、教会で祈ったんだ。亜希子さんを幸せにします、と。そう神に誓った。なのに守れなかった。これじゃ神に合わせる顔がない、そう思って教会に行けなくなった」
亜希子は掛ける言葉が見つからなかった。ハユンが小さく見える。
「……亜希子に、弱いところを見せて恥ずかしいよ」
「そんな……」
「俺は弱い人間かもしれない」
「えっ?」
ハユンは亜希子のその反応に驚いた。
「今知ったの?」
亜希子は不思議そうに言った。
「?」
「私はハユンさんが臆病で弱い人だって、知ってたわよ?」
ハユンはどういうことか分からなかった。
「ずーっと前から、知ってたわよ」
「いつから」
「結婚する、ずーっと前から。有名でしたよ、私の中では」
ハユンは動揺した。亜希子に弱いところは見せて来なかったはずだった。
「だって……強い人が、どうせ別れるから恋人になるのやだーとか、すぐ怒ってぷんぷんしてチョコ食べさせてもらったり……する?」
「……」
「ねっ」
亜希子は包み込むように微笑んだ。
ハユンは合点がいった。
全てのパズルがはまったような感覚になった。
ハユンは思わず部屋の電気をつけた。
「そうか……」
「どうしたの?ハユンさん」
「……俺は間違ってたんだ。今わかった」
ハユンはため息をついた。
「俺は愚かで傲慢だった。俺は亜希子と智博だけ大事にして来た。他人を大切にしてこなかった。二人さえ幸せならいいと思っていたから。犯罪者には厳しく当たり、他人には、善良であっても無関心だった」
「……」
「でも……それじゃダメだったんだ……本当の意味で、亜希子と智博を大切にする為には博愛的であるべきだったんだ。智博にも博愛から名前をつけたのに……俺はずっと分かってなかった」
「……」
「俺は敵を作り過ぎたんだ……そういう生き方をしてきたんだ……」
亜希子はどう声を掛けて良いか分からなかった。
「人を赦して来なかった自分を、神も赦さないだろう」
ハユンはうつむいた。
「そんなことないわ」
ハユンは亜希子の顔を見た。
「あなたは『赦さない人』より『愛する人』の方が合ってるわ。私たちに出来たんだもの。これからだって遅くないわ」
「そうかな……」
「それに……」
「それに?」
「私はハユンさんの弱さも愛してきたつもりよ」
亜希子は優しく微笑んだ。
亜希子にはかなわない、とハユンは思った。
「俺は赦されて生きて来たんだ……今までずっと」
ハユンはそう呟いた。
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